川向かいの同胞へ 8
深夜の町を駆け抜ける馬車の音は、不気味な霧の漂う駅に響き渡る。僕達の顔を認めた兵士に対して、彼の宿名と仮名を明記された、振出手形とチップを放り投げながら、エルヴィンは颯爽と馬車を動かした。
「後日支払いお願いいたします!」
兵士は一瞬何事かと目を見張ったが、渡されたチップの羽振りの良さに敬礼で見送った。馬車は、ガス灯の光が届かない、森沿いの道を辿る。
狼の遠吠えが彼方から響くと、烏が一斉に飛び立つ。空の闇を覆い隠す烏の巨群が馬車の上を通り過ぎると、翼をはためかす音が頭上を埋め尽くす。狼の遠吠えが途切れてもなお、耳をつんざくような羽音の群れは中々止まらなかった。
薄っすらと夜霧の漂っているプロアニアの気候も手伝って、また、国内の外務官という信頼も手伝って、逃亡は相当スムーズに進んだ。
僕は背後に顔を覗かせる事も出来ず、ヤトを膝の上で抱きかかえながら空を見上げる。息苦しそうな烏の鳴き声と、先細りする遠吠えが空気を揺らし、地面を蹴る車輪の音を隠す。
ひたむきに轍を刻み込む車輪は、夜明け前までに一気に次の目的地の目前まで進んだ。
荷台の外を見回していたフランがフード越しに小さく「あっ」と声を上げる。荷台に緊張が走った。フランは口を小さく開け、人差し指を立てて空に手を伸ばす。
気づけば森は彼方に消え、朝焼けのオレンジが地平線の向こうに現れ始めている。馬車の風を切る音だけを頼りに、彼女は何度か頷いた。
「エルヴィン。風がおかしくないかしら?」
「……風?」
エルヴィンが聞き返す。僕は荷台に身を乗り出し、全身で風を感じ取る。そして、草原のたなびく様を確かめ、僕は、思わず青ざめた。
風が、風景と逆に吹いている。
こんなことがあり得るのか?僕は混乱してエルヴィンを見た。彼はまだ風の向きに気づいてはいないらしい。今度はフランに視線を送った。二人だけが確かに感じた違和感は共通していたらしく、彼女は僕に向けて、ジェスチャーで風の向きを示した。僕は確信を持ち、エルヴィンにだけ聞こえるように耳打ちした。
「……風の向きが風景と逆だ。こんなこと、あるのかな」
「風の、向きが……?」
エルヴィンは前を向いたまま、馬車の動きを止めた。彼はそのまま周囲を注意深く見まわし、静まり返った草原を見渡す。人影は見られないが、風とは異なる外的要因によって、草原が揺すられていることを確かめた。エルヴィンは僕の頭を荷台に押し込み、一気に馬車の速度を上げた。
「何、何!?」
草原を這う何かが一年草を掻き分ける。姿の見えない何かが、すぐそこまで近づいていた。
強烈な耳鳴りが鼓膜を刺激する。迫り来る地を這う縄は、ぱちぱちと静電気を放ち、草木を払いながら接近する。馬車の速度に押し負けたのか、縄は草原から顔を覗かせた。
つぶらな瞳と、長い舌。耳も足もない鱗だらけの不気味な生き物。
それは所謂蛇であり、より正確に言うならば、サルースと呼ばれる魔物だ。
馬車が耳鳴りを切り抜けると、温い風が一気に頬を攫う。逆風が順風に変わり、馬車が異常な速度で車輪を痛めつけている。それ程に、彼の魔法は強力だったのだろうか。馬車がゆっくりと速度を緩めると、僕達は安堵の溜息と共に、全身に入った力が抜けるのを感じた。
馬車が道路を抜けて暫くすると、関所の前に羊飼いが群れを引き連れて兵士と何かを話しているのが見えた。市場の開場まで時間があるためか、隊商や行商の類はおらず、関所の前には羊飼いしか見られない。
関所の前に控える羊の群れというのは異様な存在感がある。牧羊犬とベル付きの杖はエストーラでも見馴れたものであり、僕の中に奇妙な親近感が湧いた。
「成程、ケンプの群れと蛇の魔法が重なったわけですか……」
エルヴィンは感心したように呟いた。フランは風向の急激な変化に疲れたのか、縁にもたれ掛かりながら、鎧を枕代わりに寝息を立てている。
「ケンプとサルースの魔法という事は、あの羊飼いがサルースの被害を兵士に報告しているのかな」
僕はヤトを撫でながら尋ねる。ヤトは恐怖を感じていたのかいないのかさっぱり分からない表情で、もひもひと鼻を動かし続けた。
「そうですね。ケンプの最後の抵抗と、我々の通過が偶々重なったのかもしれませんね」
サルースは相手を電流で麻痺させ、首と全身を絞めて拘束し、獲物を丸のみにする蛇だ。ケンプほどの大型の動物を捕食するという様はいまいちイメージが出来ないが、彼らは顎を外してでも丸のみをする力があるうえ、鋭い犬歯も衰えてはいないため、捕食すること自体はありえない話ではないのかもしれない。その上、ケンプ一頭を捕食できれば、彼にとっては数日分の食料になるのだろう。通りがかった羊飼いを襲ったとしても、おかしな話ではない。
ケンプは幻覚や睡眠を促進する魔法を使うとされているため、あの奇妙な風の動きや重力は、ケンプの抵抗の搾りかすだったのだろう。
馬車はやっと安住の地へと足を踏み入れる。しかし、エルヴィンは少しきまりが悪そうに、僕の方を見た。
「ここはそのまま通過しましょう。まだ追手を撒けているとは思えません」
僕は頷き、やっと町の外観を確かめる。その町は、プロアニアらしい近代技術の贅を尽くした殺風景な町であり、やはり煤煙が濛々と立ちこめていた。
今回の魔法生物
サルース:
全長80cm-160cmの肉食生物。その姿は蛇と類似しており、細長く、肢が存在しない。
優れた感覚器官を持ち、聴覚に優れる。鱗は斑模様のある茶褐色をしている。また、舌を盛んに出し入れすることによって、何らかの気配を察知するようである。私見であるが、人間の舌同様に優れた温度感知ができるのではないかと考えられ、それを利用しているのではないかと思われる。牙には穴があり、毒腺があるものと思われる。
サルースは小動物や虫を丸呑みする。虫についてはそのまま丸呑みするが、素早い動きをする小動物についてはその体で首を締め上げ、捕食する。消化中には膨らんだ腹のサルースを見ることができる。消化に時間がかかる食事法は一見非効率であるが、サルースはそれによって長期間食料を保存することができるという。
卵生であり、群れは作らない。研究によっては交配の様子を確認することはできなかったが、発情期には尾を盛んに地面に打ち付けることで音を鳴らすとされ、その行動が求愛行動である可能性は非常に高い。
主たる生息地は地上であるが、その形状から樹上への移動もたやすく行うことができる。
治癒魔法の他、放電する魔法を使用するが、身動きをとめる程度の力しか持たず、狩りの際に獲物を締め上げるまでの時間稼ぎとして使われる。
ヒトとのかかわりは古く、信仰の対象や力の象徴として知られ、肉も美味である。古来より、彼らの体液が万能薬として知られるが、おそらくは迷信であろう。
ケンプ:
体長130cm-160cmの草食獣。一般に家畜である羊の原種と考えられ、家畜化した羊と異なり螺旋状の角を生やしている。主食は草のみであり、アマルティ程多様な食料を持たない。視野が非常に広く、聴覚も鋭いが、空間把握能力は低く、敵を確認すると一斉に逃亡を始める。
ケンプは集団で行動するが、規律の取れたグループではなく、集団から逸れる個体も多い。群れからはぐれた個体は別の集団に勝手に合流して行動を共にするため、彼らの集団は「群れ」というには適切ではなく、「個体の集団」という方がより適切である。
ケンプの集団は群れとしては成立しない集団だが、彼らはもっぱら集団に紛れることによって、自己の生存率を高めているようである。この性質は、逃げ足の速い個体や強い個体ほど群れの中心にいるという特徴に現れており、生存の為なら別段どの集団に所属するかは区別されないのであろう。
実際、私の調査によれば、発情期には集団内での激しい雌の奪い合いが起こり、多くの雄がその螺旋状の角により受けた打撲傷を残していた。
彼らは特殊な反撃手段は持たない。その反面、近づいた敵を睡眠へ誘うことが可能なようである。詳細は不明だが、私見では生物の脳に作用する何らかの音波を発しているか、興奮状態を抑える成分を魔法によって周囲に放出しているのではないかと考えている。但し、現状では実証が困難なため、指摘するにとどめる。




