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黒と白の境界 5

 僕が目を覚まし窓の外を見ると、まだ空は薄暗く、ベッドの高さを視認することも難しかった。真下にあった異国の熊皮のマットと目が合う。その口は大きく開けられ、まるで助けを求めるかのようにも見えた。僕は慎重に着地する。

 天蓋から垂れるカーテンを払い、正面に向くと、先程の猫の剥製に入れこまれたガラスの目玉がうっすらと差す月明かりの助けで輝いて見える。


 朝というには暗いものの、皇帝たる父さんや、領主として既にエストーラの管理を任されたヤーコプ兄さんは既に起床している。シーグルス兄さんについては定かではないものの、使用人室から時折物音がするので、恐らく既に起きているのであろう。


 大学に語学や算術を習いに行く年齢である僕には特別に仕事はない。つまり、僕はこの時間におきるという習慣がなかった。手持ち無沙汰に机に向かい、聖典を朗読して読書の練習などをしていると、隣の部屋の扉が開く音が聞こえる。シーグルス兄さんが仕事を始めたのだろう。


 僕は聖典の中から意味の分からない言葉を書き出す。市参事会の仕事を終えたシーグルス兄さんにでも聞いておこうと考えていると、僕の扉を何者かがノックする。僕は驚き、扉にふり返った。


 見れば、使用人が寝ぼけ眼で様子を見に来ていた。僕は暗殺でもされないかと怯えながら使用人を睨み付ける。自然と手が聖典に置かれたのは、僕にはまだ帯刀が許されていないが故の抵抗の意思だったのかもしれない。


「……おや?エルド様。お部屋を間違えてしまいました……お許しください」


「に、兄さんに用事……?」


 恐る恐る訊ねると、使用人は眠そうな目を必死に持ち上げ、眠気のためか、あるいは同意の意味なのか分からない様子で首を下げた。僕はひとまず安堵し、目端に彼を入れつつも、聖典に視線をおろす。


「エルド様……」


 背後に彼の声が近づき、思わず身を震わせる。僕は咄嗟に聖典の角を彼に向けた。彼は驚き、立ち竦む。その手には、僕の自室用のガウンがあった。きまりが悪くなり、聖典をおろし、俯いた。


 彼は静かにそのガウンを僕の背にかける。それは、青く、小さな鳥が刺繍されたものであり、趣味として刺繍も嗜むシーグルス兄さんのプレゼントだった。

 多少なりとも背の伸びた今でも、少し小さくなったそれを防寒用に肩にかけるのが、僕のお気に入りだった。


「まだ夜明け前です、夜冷えしてしまいますよ。どうか、お気を付けください」


「ごめんなさい」


「もったいないお言葉です。エルド様は本当にお優しい……。おっと、いけない。失礼いたしました」


 それは、恐らく心の底からの言葉だったのだろう。僕はガウンの肩を軽く掴み、目を細めた。使用人はそのまま、少し名残惜しそうに部屋を後にした。扉がゆっくりと閉ざされると、聖典の言葉を弱々しい声で囁いた。


「人よ、わが愛する子らよ。汝らの善意に祝福が在らんことを」


 それは、旅人の神聖マッキオが、旅立ちの時、別れの言葉としてしきりに使うものである。彼は神々の伝令者としていくつもの国を巡り、世界に言葉を満たした。そして、その言葉は人々を祝福と祈りに目覚めさせ、世界は恵みに満ちる事となったという。「繁栄」と「旅」を結び付けた絵画が描かれることの多い聖マッキオは、現在も旅人の神として崇められている。


 僕はガウンを貰った日の事を思い出していた。その日‐確か五年ほど前のこと、は特別な日ではなかったはずだ。

 当時の僕は白昼夢の鳥を追いかけて昼夜問わず町を練り歩いていた。憑りつかれ、一枚目の「夢の鳥」を描き終えた直ぐの頃で、シーグルス兄さんも今の僕ほどの背丈だった。僕は当時から器用なシーグルス兄さんの勉強の合間に、鳥に纏わる話を調べるために何か本や資料がないか、と訊ねていた。今にして思えば大層迷惑なことであったのだろうが、兄さんは嫌な顔もせずに答えてくれたのを覚えている。

 その日も、町を練り歩きヒントを探したが成果は出ず、意気消沈して家に戻ったのだ。その上、僕は父さんに大層怒られ、食事ものどを通らない程に疲弊していた。部屋で泣き続けていた僕に、兄さんはこっそり僕の部屋に入り、未だ嗚咽を漏らす僕の話をよく聞いていた。そして、恐らく僕が白昼夢の鳥をどこかで見せていたのだと思うが、お古のガウンに鳥の刺繍を施し、僕にくれたのだ。


 ガウンの肩を強く握る。既に使い古したそのガウンをどちらの兄さんも笑うが、僕にとっては、初めて白昼夢の鳥が立体となった、特別な瞬間でもあった。僕は聖典の一節をなぞる。

 光の主神ヨシュアが「天と地を双子にした」瞬間は、僕の眼前にはその一節でしか表現されなかった。


 僕は不意に窓の向こうを見る。霞みがかったノースタットに、赤々とした太陽が昇る。目を細めても眩いそれを、僕は見つめた。。

 町に彩が添えられる。光の形が、七色になって輝いて見えた。



 朝靄の中のノースタットは、僅かな庭園と街並みの影を残し、隠された。影だけを移す霧のカーテンは幾重にも重なって漂い、カラスの鳴き声だけが鮮明に響き渡る。

 僕は聖典を精読しながら、境界線の判然としない窓の向こうの町を思った。


 硬いパンが食べたい。群衆の中で馴れ合いたい。一人で密やかに過ごすのは怖い。何か、「ぼんやりとした命」の中に溶けて消えたい。


 耳障りの言い、荘厳な言葉が美しい形で綴られる。僕は幾らか心の安らぎを覚え、また、その端正な文章を読み解く事実に愉悦を覚える。使用人のノックの音が、部屋によく響いた。


「エルド様、お食事の用意が出来ました」


「ありがとう。伺います」


 使用人は僕の言葉を聞くと丁寧なあいさつと共に去っていく。僕は立ち上がり、食卓へと向かった。

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