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川向かいの同胞へ 6

 僕がフランの部屋をノックする際の緊張感は、想像に難くないだろう。実際に、心臓の高鳴りは益々速くなるばかりで、顔面は蒼白なのに血が全身を駆け巡る温度を感じられるほどだ。


 そんなことは露知らず、フランは中でのそのそと起き上がると、しっかりとチェーンを掛けた扉を小さく開け、眠たそうに目を細めている。


「何でしょうかぁ」


 フランがあからさまに不機嫌そうに言う。僕は周囲を気にしながら答えた。


「ごめん、ちょっと静かに、エルヴィンの部屋に来てもらえるかな……?」


 フランは僕の表情と言葉から何事かを悟ったのか、直ぐに目を覚まし、二、三度瞬きをした。


「わかった。先に行ってなさい。準備をしてくるわ」


「二回ノックし、一拍おいて一回ノックね」


 彼女は黙って頷き、扉を閉めた。僕は一旦エルヴィンの部屋に入る。エルヴィンは終始無言でノックを聞き、扉だけを開けた。


 まとめた荷物が隅に置かれ、窓は薄いレースのカーテンで閉ざされている。ランプの灯りも弱め、寝台の上だけを照らされるようになっていた。僕は扉を閉ざすと、小さく頷きながら、瞬きで会話をする。


『フラン、追っ手、来る。ノック二、一拍、ノック一』


『承知。寝台に寄れ』


 僕は窓の向こうを気に掛けながら、静かにベッドの上に腰かける。エルヴィンは窓の向こうを警戒しながら、望遠鏡で陰の動きを観測している。僕は、扉を注視する。

 部屋はエルヴィンらしく整頓されているが、薄明かりを灯すランプが波紋のような光を作り、寝台の周辺を断片的に照らす。波紋越しに照らされる光景は、黄ばんだ白やフローリングの継ぎ目など、いわば「空室」の中にいるような錯覚を覚えるものだ。

 僕はエルヴィンを見る。細長い馬面も、真剣な表情では逞しく思える。望遠鏡の向こうにあるものに警戒し、時折目を細めると、小さなため息を漏らす。


 そして、十分ほど警戒を強めていると、ノックの音がした。僕達の視線は一気に扉に集まる。俄かな緊張感に、ガス灯の波紋が揺らいだ。ノック二回の後に、暫くしてノックが一回される。僕が立ち上がろうとすると、エルヴィンがそれを制止した。

 急激に心臓の鼓動が速まる。暫くして、何者かが扉の前から立ち去る音がした。


 離れていく足音は、どこか重厚で、軽やかとは言い難いものだ。僕は、エルヴィンを見る。彼は静かに頷くと、目で信号を送った。


『足音の重み、違う。女、なし』


『了解、警戒、継続』


 その一時間ほど後に、再度ノックの音がする。今度も予定通りのものだったので、僕はエルヴィンに確認する。彼は今度こそ頷いた。


 僕は急ぎ扉に向かい、チェーン越しに相手を確認する。顔の主がフランであることを確認し、チェーンを外した。

 フランは無言で素早く入室すると、静かに扉を閉ざす。息を吐く暇もないほど手早くチェーンを付けると、そのまま確認もとらずに寝台に座り込んだ。

 僕も寝台に腰かけ、彼女に詳細を説明しようとする。フランは僕の口元に人差し指を付けて、言葉を止めた。暫くそのままとどまっていると、僕達と同様の方法で言葉を伝えた。


『さっき、人の気配』


『警戒、音、無きよう』


 宿から勝手に抜け出すことは許されていない。宿主側にとっても不利益であるし、管理の問題もある。門限が宿に設けられる例も多く、現在は息を潜めるよりほかにない。

 秒針の動く音だけが部屋に響き渡る。息を殺して待機していると、痺れを切らせた大きな足音が近づき始める。僕は静かに扉に近づき、壁に耳を当てた。


「……やはり手荒な手段に出る必要があるか……」

 僕の背中を電流が走った。時計の音が高らかに響き、合わせて心臓の鼓動の高鳴りを感じずにはいられなかった。貯まった唾をのむ余裕もなくなり、僕は壁に耳がめり込むほど耳を傾ける。


「まずは宿主に『問い合わせ』かね?」


 エーゲンベルトの声が、忌々しくも余裕をもって僕の鼓膜に伝わる。エルヴィンが静かにフランと目で信号を送りあう。僕は彼らから見える方の目で信号を送った。


『警戒、警戒。宿主に、問い合わせ』


 エルヴィンが驚きの表情を浮かべる。僕は小さく頷き、高鳴る鼓動を何とか落ち着かせようと、胸に手を当てる。


『問い合わせは武力か、否か』


『不明、武力の可能性大』


 フランの顔面が強張る。エルヴィンは静かに目を瞑り、暫く何かを考えこんでしまった。


 部屋を支配する緊張感は、遠ざかる足音には伝わらない。それだけが安堵感を覚えるのに十分なものだったが、乾ききった喉は唾を飲み込む事も許さなかった。


「しかし、彼らはどんな方法を使って隠れているのか?確かな情報のはずだが」


 遠くから響く伯爵の言葉に、もう一人の男はややがさつに答える。


「宿主に問い合わせましょう。それで解決ですよ」


 足音が遠ざかっていく。僕は壁から耳を外し、放心状態になりながら、二人の方を見た。エルヴィンは顔を上げ、決意の瞳で信号を送る。


『逃亡、逃亡。宿主は断念』


 僕は唇を噛みながらも、静かに頷いた。


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