魔女の呻きはキィキィと 22
僕が目を覚ました時、ルーデンスドルフ家の客室には、密やかな祈りの席が設けられていた。身を起こすと、肩と足に激痛が走る。エルヴィンとフランチェスカは腰を上げ、前かがみになり、僕の顔色を窺う。
「エルド様!貴方は馬鹿ですか!!」
「あ、エルヴィン……。フランチェスカは、大丈夫……?」
僕は自分でも不思議なほどに、自分の体に対する不安感がなかった。何か現実に起こった事ではないような、そんな気がしたのかもしれない。
フランチェスカは僕の頬を打つ。医者と枢機卿の一人が驚愕して止めようとしたが、間に合わなかった。
頬が熱を帯びる。赤くなった肌を摩ると、ジンジンとした痛みが滲んだ。
僕は彼女を見る。こちらは心配しているのだから、怒られるいわれはないはずだ。
「……ありがとう」
頬を打ったその手の形を残したまま、彼女は言った。僕は小さく頷く。よく見れば、フランチェスカの瞳は潤んでいた。
香草の焚かれる匂いと、軟膏の嫌な臭いが混ざり合う。しかし僕の体には、傷薬が塗られた形跡はなかった。
「勇気あるというには些か無謀が過ぎるな、エストーラの皇子」
僕は聞き覚えのある声の主を見る。ベッドから少し離れた、僕が絵を描いていた作業机の椅子に腰かけ、杖を足元に伸ばす大男が座っていた。
「貴方は、国王陛下ですか?」
「如何にも、私こそ、プロアニア国王、ステラ・フォン・ホーエンハイムである」
僕は深く頭を下げた。それは、命の恩人に対する礼儀として以上の意味が籠っている。ステラは無表情で続ける。
「エストーラの内部事情に通じているであろうお前には、ゲンテンブルクでゆっくり話を聞くこととする。しかし……何事であったか、エルド皇子よ。さしずめヤーコプの謀略か」
僕は顔を伏せる。ヤーコプ兄さん。一般的な彼の評価は、あまりいいものではない。ステラも間違いなく、その評判を実際に体感している張本人であるはずだ。しかし、その人は、もうこの世にはいない。そして、僕の帰る場所は、とうの昔に失われていた。僕は意を決し、首を横に振る。
「……いいえ、シーグルス・フォン・エストーラのクーデターです」
これまでどっしりと構えていたステラが姿勢を崩した。驚きの表情はたるんだ頬を持ち上げる。周囲の衝撃も相当なもので、思わず神父や医者、リヒャルトまでざわつき始めた。
それほどまでに、シーグルス卿の功名は大きい。プロアニアでは啓蒙紳士、ムスコールブルクでは大公「陛下」、カペルでは花冠の騎士。民衆や令嬢が彼を讃える言葉は、どの国にも存在する。聖典派・聖言派の別なく讃えられる彼は、今は新大公として内政を掌握していることだろう。
しかし、ステラはすぐに平静を取り戻し、たるんだ二重顎を持ち上げる。
「そうか、では、プロアニアにとっては吉報やもしれん。彼は聖典派にも理解がある」
「そうでしょうか……。彼は「今は」聖典派に理解がある、という可能性も否定できません」
僕は率直な印象を述べる。身内であるがゆえに細部に見られる、彼の立ち回りの巧さを思い出していた。ステラは一瞬表情を強張らせたが、そこは国王たるだけのことはあり、僕の言葉の裏にあるニュアンスまで理解したらしかった。
「カペルとエストーラの、いずれから脅威が訪れるであろうか」
「いいえ、プロアニアから脅威が訪れるかもしれません」
僕の答えに対し、ステラは頭を抱える。暫くその姿勢で沈黙していた彼は、突然鼻を鳴らした。
「そうだな、例えば今のように、一石を投じることもあろう」
僕は意味を理解しかね、ステラを見つめる。しかし僕の視線を意に介さず、彼は杖で地面を突き、立ち上がった。
その巨体に改めて驚愕する。彼からすれば、僕の体はどれ程貧弱に見えるだろうか。たるんだ顔と、細い目、それを支えるに相応しい巨体はゆっくりと方向転換し、三本の足で扉まで進んでいった。
「そろそろ失礼しよう」
ステラがそう伝えると、エルヴィンは深々と頭を下げる。僕も彼に対しては肩に激痛が伴う程も頭を下げた。リヒャルトも一言断りを入れて立ち上がる。医者と神父は彼の後を追う。二人は立ち去る前にしっかりと僕らに頭を下げ、急いで部屋を後にした。
「エルヴィン、席を外してちょうだい」
四人が立ち去った直後、フランチェスカは頭を下げたまま言った。エルヴィンは一瞬戸惑い、渋々と立ち上がった。背中に堪えがたい熱を感じていたのか、彼は去り際にカーテンを完全に閉ざす。
「前のお部屋でお待ちしております。エルド様」
エルヴィンは僕が承諾をするのを確認すると、静かに扉を閉ざした。
光の入らない部屋は酷く暗く、日中にもかかわらず家具の陰さえ見分けることが出来ない。
フランチェスカは暫く黙って僕を見ていた。僕は身を起こしているのが耐えられなくなり、ゆっくりと体をベッドに降ろす。
天井の壮麗な装飾も、今はその美を半減させていた。
「ねぇ、何故、助けてくれたの?貴方には利益がなかったはずよ」
それはとても沈んだ、迷ったような声だった。彼女は潤ませた瞳を隠すように、前髪でしっかりと隠している。
僕は一瞬迷ったが、素直に答えた。
「僕達が守れなかったものと重なったから、かな……」
フランチェスカは顔を上げた。潤んだ瞳で、はっとした表情を浮かべている。
絢爛豪華な調度品もその輪郭だけを残し、ひっそりと息を潜めている。香草の残り香が甘ったるく漂い、無用に視界を明るく見せる。カーテンからは一切の光も入らない。彼女の潤んだ瞳も又、光を求めているように見えた。
「見捨てたら、またやってしまったと、ずっと後悔する気がしたんだ。まぁ、君を助けても、僕の怨嗟も自責の念も、簡単には消えないんだけど……」
僕の言葉は、彼女に届くだろうか。きっとステラであっても、この言葉の意味を理解することは無いだろう。せいぜい、エルヴィンが理解を示すのがやっとだ。
この年齢で、何を失ったというのか。彼女はそう思っているに違いない。あるいは、家族の絆に関することなのだと、理解したかもしれない。
「そう……。だったら、私の話を聞いて頂戴」
彼女はそう言って、言葉を一つ一つ選びながら、語り始めた。




