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黒と白の境界 4

 食事を終えた僕は自室に戻り、蝋燭に火を灯してカバーをした。スケッチブックを開き、件の絵を猫の剥製と見比べる。その肉付きや、愛らしい毛並みと言ったものは、確かに彼と遜色のないものであった。それでも、くり抜かれた目玉を描くことはどうしても憚られ、静かに溜息を吐いた。


 実のところ、僕の絵の中には、このような目玉の書き込まれていない絵は少なくない。それは、納得がいかないという理由もあるのだが、今一つ、納得がいっても命を吹き込む事への恐れのようなものがあった。

 僕にも、宗教画を描こうとしたことは一度あった。この離宮にはあちこちにそうした類の絵画はあるので、模写は容易であるし、剥製よりも様々な息遣いを感じることが出来る。しかし、目を書き込もうとすることは、やはりできなかった。それは、僕が神を冒涜しているのではないかという気持ちや、或いは、あるはずのない視線を感じずにはいられないことに対する恐れから来るものだ。

 群衆に紛れることが好き、という僕の嗜好は、このような「視線から逃れること」と直結しているのだろう。すなわち、内なる神に救いを求める事と同じように、形のない群衆の中に隠れることが、僕にとっての安息なのだろう。


 僕はスケッチブックを再び閉ざし、目を瞑った。

 目の前に岩礁の風景が浮かぶ。荒波の中に浮かぶごつごつとした小さな岩礁は、荒波に削られた様々な形の凹凸がある。険しい岩礁の傍には一隻の船が止められ、探検家と思しき悪漢が気味の悪い笑みを浮かべる。そして、目に焼き付いて離れない、鳥の視線が視界の端に映る。

 僕は目を開いた。あるいは、目を背けたと表現するべきなのかもしれない。言葉では表現できない臨場感のある光景に、言いようのない恐怖を覚えた。


 突然ノックの音が響き、僕は咄嗟にふり返る。


「入っていいかい?」


「シーグルス兄さん……。お入りください」


 僕は立ち上がる。シーグルス兄さんは、扉を開けると、あいさつ代わりに軽く手を挙げる。普段通りの笑みを浮かべていた。

 黴臭い画廊に一本の花が生けられたように、部屋の雰囲気が明るくなる。


「ヤーコプ兄さんは少し慎重なところがあるだけなんだ、嫌いにならないであげてね」


 シーグルス兄さんは開口一番にフォローを入れた。華やかな舞踏会映えする笑みが、壁画たちに祝福を受ける。僕は静かに頷いた。

 兄さんは、目を細めて笑う。一言断りを入れ、客人用の椅子に腰かけた。


「エルドはもう少し背筋を伸ばした方がいい。背むし男はモテないよ」


「はい、すいません……」


 言われるがまま背筋を伸ばして答えた。兄さんは満足げに頷き、足を組む。足を持ち上げすぎず、しかし煌びやかな衣装や、良質の革靴の光沢をさり気なく強調するその仕草の一つ一つに、兄さんの優雅さが滲み出ていた。

 僕は立ったまま兄さんの言葉を待つ。兄さんは暫く黙って僕を見ていたが、何かを察したのか小さく笑った。


「ははは、どうぞ、座りなさい」


「す、すいません。お言葉に甘えて……」


 兄さんと向き合うように椅子を引き、腰かけた。空気の抜ける音が微かにする。机上には閉ざされたスケッチブックと、物言わぬ猫の剥製、そして煤から壁を守る為の硝子の覆いがついた燭台が置かれている。僕の目の前には、小さなもてなし用の机と、座り心地のよいソファや、天蓋付きベッドが置かれている。ベッドの隣には、僕が鳥に憑りつかれてから描いたスケッチのあらゆるものが入れられた小さな書棚があった。

 僕が黙って俯いていると、兄さんは僕の向こう側にあるスケッチブックに視線を向ける。


「出来栄えはどうかな?見せてくれないか?」


「……はい、兄さん」


 僕は背中を見せないように横向きにスケッチブックを取る。そして、件のページを開き、兄さんに手渡した。兄さんはそれを受け取る。

 沈黙が長引くにつれて自然に腰が曲がっていくのを自覚し、しきりに背筋を伸ばす。兄さんの視線は僕の線画にだけ向かい、僕は一人で腰をかがめては姿勢を伸ばすという、無意味で奇妙な動作を繰り返した。

 暫く絵を吟味していた兄さんは、二、三度小さく頷くと、僕に絵を返した。


「うん、凄く、うまいと思う。ただ、エルドは何故目玉を書かないんだい?少し、不気味に見えてしまうよ」


「はい、すいません」


「別に謝る事じゃないんだけど、ね。不思議に思っていたんだ」


 僕は答えに窮し、俯いた。兄さんは僕にスケッチブックを返すと、鼻から大きく息を吸い込み、足を組みかえた。彼はそのまま手を膝の上で組み、少し前かがみになる。僕は、自分の表情が暗い事を隠すため、スケッチブックを閉じて机に置いた。


「今日は、外の様子はどうだった?」


「平和でした。言い争いもなく、市場も賑やかです。政府の悪口も聞きませんでした」


 僕は素直な知見を述べた。兄さんの懸念が何処にあるのかは大体予想がつく。聖言派たる政府の、聖典派へ対する排他性は非常に強固なものであり、聖典派の聖言派に対する対抗意識もまた、非常に強いものだからだ。

 ヤーコプ兄さんの結婚式も近日に控えた今こそ、聖典派勢力の動く格好の機会であることは間違いない。そうであれば、挙式の為に利用せざるを得ない教会が狙われないように、警戒しないわけにはいかない。そのため、兄さんが僕を通してノースタットの世論を調べることはごく自然なことであり、エストーラ一族の地位を揺るがす事件が起こる前にその芽を摘もうと考えるのも、また自然なことであった。


「教会は見てきたかい?」


「教会は、見ていませんね。祈りの日ではありませんし……」


「そう、か。依然警戒が必要だね」


 シーグルス兄さんは自分の膝を叩き、姿勢を戻す。その表情は変わっていないが、部屋の緊張感は耐え難いものとなっていた。


「……すいません」


 僕は俯く。ヤーコプ兄さんと比べ、シーグルス兄さんの行動は表情からは読み取ることが難しい。優秀か否かまでは僕には判断しかねるものの、兄さんの微笑が他者へ与える威圧感はそれなりのものである。

 兄さんは黙って首を横に振る。彼はそのまま立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。革靴が絨毯を踏みつける音は、床を鳴らすものよりも少しくぐもって響き、秘密の会話然とした緊張感が漂い始める。僕は止まらない唾を飲み込み、乾く唇を何度か湿らせた。


「ノースタットにも聖典派の人々は多くいて、彼らは兄さんや父さんに不信感を抱いている。聖典派の人々は商人で、彼らの意見には同情しないこともないが、元々互いに同志であることも事実だ。互いに争い合うことは避けるべきだと思う」


「……わかります」


 僕が答えると、兄さんはくすりと笑う。


「すいません、じゃあないんだ。良かった。それでは、私はお暇しようかな。熱中しすぎて、夜更かししては駄目だよ。また、明日」


「おやすみなさい」


 僕が答えると、兄さんは扉を開け、肩の高さで左手を振った。僕も手を振り返す。広い寝室よりも幾らか明るい廊下の中に溶けていった。


 つい、安堵の溜息が漏れた。


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