魔女の呻きはキィキィと 16
「ああー……」
僕は深いため息と共に、喉から流した筈の緊張感に胃がもたれるのを感じた。
客室には暖炉が焚かれ、やや暑いくらいに調整されていた。窓から大きな駐車場を一望できるこの部屋は、広い部屋にダブルベッドが一つと、暖炉から少し距離を置いた丸い机と二つの向かい合った椅子、作業机などが置かれている。
書棚には教会の司教お手製の重厚な聖典が一つ置かれている。分厚いなめし皮の表紙には、鍵さえつけられており、四方の銀の装飾と合わせて、ルーデンスドルフ家の貴族としての羽振りの良さをありありと見せつけていた。
天井には世にも美しい宗教画、壁には大きな角を持つアクトーンの剥製が壁に掛けられている。エストーラの自室と比べても遜色のない、息を呑むような豪華さだ。
一方で、この豪華さが僕の心を落ち着かせるのを拒んでいることも事実だった。
ルーデンスドルフ家の目的は、ある意味では予想通りであったが、またある意味では最も難しい選択でもあった。
要は、僕を皇帝にする代わりに、娘と結婚しろ、というものだ。頷けば当然シーグルス兄さんとの戦争に発展するうえ、命の危険もある。その一方で、断ればその場で用済みとして、それこそ即刻ホスチアから追い出される可能性もある。プロアニアの庇護下にある僕にとって、ルーデンスドルフ家を敵に回すのはあまり好ましい事とは言えない。
僕は一人、扉にもたれ掛かったままで大きなため息を吐いた。
「ままならないなぁ……」
「そうねぇ……」
僕は声に驚き、周囲を見回す。見れば、暖炉の後ろの壁が開き、中からフランチェスカが顔を覗かせていた。
僕は驚きの余り絶句する。背筋が凍るよりもずっと早く、反射的に身構えた。もっとも、鍛錬の成果も芳しくない僕の丸腰の警戒では、威圧感はあまり感じられないだろう。
案の定、フランチェスカは僕を馬鹿にするようにクスクスと笑った。
「とって食べたりしないわよ。私だって貴方を上手に使いたいもの」
僕はゆっくりと身構えた手をおろす。彼女はそれを認めると、鼻であしらうように笑い、首を持ち上げて僕を見下ろした。
「男は大変ねぇ。人間らしく生きるのに、そんなに苦労が必要なのかしら?」
僕は先ほどとは違った驚きの為に、彼女を呆然と見つめた。
怪しげな夜霧の中を這いまわるように歩く浮浪者の姿が、城門の前を通り過ぎる。凱旋門にもたれ掛かって弱った貧民たちは兵士に追い出されていた。
フランチェスカは悪びれる様子もなく、暖炉の裏から現れると、丁寧に後ろ手で隠し扉を閉める。その間にも一切僕から目を逸らそうとはしなかった。
夕刻の穏やかな淑女の微笑からは想像もできないような、妖艶な微笑を浮かべた彼女は、その瞳を細めて怪しく笑った。
「つまらない子ね。貴方とは幸せな結婚生活を送れそうだけれど、ちっとも楽しい生活は出来そうにないわ」
「突然押し掛けてきてそれはちょっと酷いと思うな……」
僕に向き直る。彼女は勝手にベッドに座り込み、小さく溜息を吐いた。
「そうねぇ。私も配慮が足りなかったわ。でも、今の気持ちは本物よ」
聞いてないけどね。僕の表情から察しがついたのか、彼女は先程よりは幾らか面白そうに微笑んだ。
「そう。でもね、私は言ってしまうのよ。だって、貴方とはどうせ契りを結ばされるのですもの」
「君のお父さんは皇帝の位を狙っているんだね」
彼女は髪を払う。首筋は驚くほど白く、黒髪のよく似合ううなじが、一瞬だけ顔を覗かせた。
「もう、この家は皇帝に呪われているのよ。それは諦めなさい。貴方だって、そう言うことを狙っているのでしょう?」
僕は押し黙った。皇帝になりたいかと問われれば、答えはノーである。しかし、出来る限りいい暮らしが出来れば、などとも考えてしまう。
億劫な権力争いから逃れ、町の中を漂う群衆の群れの一部として、誰にも見つけられずに生きられれば幸せだろう。しかし、皇帝の一族と言うものはどうあってもそうなる事は出来ないらしい。
彼女は、答えに窮する僕を見て、足を組みかえた。
「あら、そっちだったの。てっきり政争に負けて命からがら逃げてきたのかと思ったわ」
「似たようなものだよ……」
僕はそう答え、自嘲気味に笑う。不甲斐なさだけは一流の僕には良く似合う表情だろう。
「だったらちょうどいいわ。貴方を言いように使わせてもらうわね」
「さっきから、僕を何に使う気なの……?」
僕は顔を顰める。ベッドから立ち上がった彼女は窓際へと向かい、ゆっくりと外を眺める。
「別に、町を案内したいだけよ」
夜霧と勝利の凱旋門が、街並みを遮る。それでもなお、背の低い無機質な工場と高い煙突を隠しきる事は出来ない。ガス灯の灯りがぼんやりと霧を照らし出し、堅牢な城塞へと断続的に連なっていく。
彼女は窓の向こうを見据えたまま、抑揚のない声で呟いた。
「プロアニアの霧はとても濃い。その理由は、貴方も御存じでしょう?」
道には浮浪者だけが点々と彷徨う。彼は道路の端を跛行しながら、ガス灯の光が届かない、狭い路地裏へと消えて行った。
「さぁ、良い子は寝る時間よ。早く寝なさい」
「言われなくても寝るよ」
月の逆光を受けた彼女の微笑は、街角のガス灯よりも妖しく輝いて見えた。




