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黒と白の境界 3

 絢爛豪華な内装に似合わない、古風な甲冑が二つ立つ。燭台を吊るすシャンデリアには、硝子の覆いがかけられ、溶けた蝋やそのかすが万が一にも食事にかからないように配慮されている。最も上座に現皇帝の父、レーオポルトが座し、その右にヤーコプ兄さん、そしてその向かいにシーグルス兄さんが微笑を浮かべながら銀のフォークに手をかけている。僕は末席で縮こまっていた。

 食卓では、群衆に紛れることが出来ず、否応なく向けられる視線を感じる。ヤーコプ兄さんはチラチラと僕や、シーグルス兄さんを険しい表情で睨み、自分の食事を何度も銀の皿の上に乗せる。そのうえで、毒のないことを確認する為に、飼い猫を膝に置いて食べさせる準備を整えているのだ。シーグルス兄さんは微笑をたたえながら膝の上に手を揃えて置き、縮こまっている僕に視線を送る。彼のその仕草は、誰かの隠し事を探る際によく見せるものだった。その視線が僕を苦しめることは、言うまでもないことだった。


 ヤーコプ兄さんが料理をすべて皿にのせ終える。一皿の中に秩序だった山として積み上げられた料理は、膝の上に置かれていた猫がかき混ぜながら貪る。美しい山脈のような料理の数々は、無残にも垂れ流した溶岩のように入り組み、混ざり合った。猫が食べきって暫く待機していたヤーコプ兄さんは、猫が膝を飛び降りたのを確認して頷いた。

 父さんは、ヤーコプ兄さんの合図を受け、全員の着座を確認すると、静かに手を合わせた。


「精悍なる聖オリエタスよ、汝より授かりし恵みある大地の子らに、賛美を捧げよう。親愛なるエストーラの大地よ、その稲穂を伸ばし、天上の聖オリエタスに向け、我らの祈りを届けたまえ。……それでは、頂くとしよう」


 父さんに倣って復唱をする。食事とは、神の恵みを「頂戴する」ものである。そうであれば、食事の始まりは儀式に他ならず、この感謝の儀は、市民、貴族、農奴、先住民の区別すらなく行われる。それがどのような形であれ、守護者の地、エストーラでは長く続く慣例となっていた。


 白いテーブルクロスの上には、これでもかという程の食事が並ぶ。中でも僕をうんざりさせるものは、柔らかい、小麦色のパンだった。決して不味いわけではなく、物足りないのだ。サクサクとしているものや、カリカリとしているもの、或いはコリコリとしているものは、どうしても何度も噛み砕く必要がある。顎を鍛えたいわけではないが、そうした噛み応えの有無と言うものは、何度も味を絞り出すことを手伝うものだと思う。例えば、燕麦パンや、バタールは、塩味や風味を口の中に転がして楽しむのにうってつけなのだ。


「エルドは、今日もお絵描きかい?」


 シーグルス兄さんが僕に訊ねる。僕は食事を飲み込み、口を拭って苦笑した。


「はい、今日は猫の剥製を書いていました」


「もっといいものを書いてはどうかね?エルドは、どうも動物の絵ばかり描いている」


「いいじゃありませんか、兄さん。兄さんの狩りの腕前を広めたくて、書いているのですよ」


 シーグルス兄さんはヤーコプ兄さんに微笑みかける。ヤーコプ兄さんは視線を合わせず、鼻で嗤った。


「は、どうだかね。私にはどうにも、動物に逃げているだけのように見えるよ。神様や、人間や、そう言ったものもあるだろう?動物など書いて金になるとも思えない。其れとも、年頃のエルドは春画でも書いたらどうかね?処分に困ったら、私が買い取ってやらないでもないが」


 父さんが咳払いをする。ヤーコプ兄さんは、視線を料理に向けたまま、念入りに肉と野菜をより分けている。取り分けられた野菜は山積され、肉が少しずつ減っていく。特に、鶏肉は見つけ次第食べられていく。父さんは逆に肉だけを取り除き、野菜を食べていた。その両方を食べるのは、どうやら僕とシーグルス兄さんだけのようだ。

 僕はちらりとシェフを見た。彼はすまし顔を決め込んでいるが、しきりに手を組み替えている。是非すべてを食べてほしい、と指摘しようにも指摘できない煩わしさがその手にしっかりと現れていた。


「今日の料理は美味しいですね。ベーコンを散りばめたサラダもいい、ドレッシングもいい」


 シーグルス兄さんが僕に視線を送りながらさり気なくフォローを加える。僕は言葉を遮られる前に、少し声を張った。


「そ、そうですね!このステーキも脂が少なく、食べやすくて美味しいです。担当者はどなたですか?」


 シェフは嬉しそうにもじもじと動く。控えめに俯き、歯を見せて笑うしぐさに、僕は安堵の表情を浮かべた。

 シェフの静かな挙手を合図に、音楽隊が美しい音色を響かせる。彼らはヤーコプ兄さんと父さんのお抱えの楽団であり、先に食事を済ませ、献立に合わせたクラシック音楽を演奏する。例えば、今日であればノイブルク地方の草原地帯を吹き抜けるような、爽やかで飾り気のない音色である。

 ヤーコプ兄さんは、少し機嫌をよくしたのか、シェフを一瞥し、鼻を鳴らした。


「毒が入っていなければなんだって美味いさ」


「では、その寄せられた野菜も食べてみてはいかがですか?」


 父さんが口を挟む。ヤーコプ兄さんは、クッション付きの背もたれにもたれ掛かり、父さんを意図的に上目遣いで見た。


「父上、ご用心ください。美味な野菜に紛れて毒草でも入っていても、色付きの料理の中では気づけますまい。貴方の命程尊いものが何処にありましょうか?」


「気遣いは嬉しいが、今の発言は撤回しなさい。私やシーグルスは平気で食べているのだから、毒草など紛れていないよ」


 父さんは険しい表情でヤーコプ兄さんを睨んだ。場の空気が一気に重苦しいものとなる。

 一旦止められた奏楽と共に、沈んだ埃がひらひらとシャンデリアの灯りの前を浮遊する。音の振動に驚いた埃たちは、そのままふらふらと動き回る。

 僕は視線を父さんに向ける。僕の体は自然と小刻みに震え、耐え難い緊張感に心臓の鼓動が速く、大きくなった。


「……ほんのジョークですよ、父上。とはいえ、還俗されてからも御多忙でありますゆえ、父上の健康を願う気持ちは変わりありません。こうして寝食を共にできる喜びを噛みしめるために、くれぐれも、お気を付け下さいませ」


「兄さんもそう言って父上を慮っておりますから、どうか赦して差し上げて下さい。神も我々を祝福していることですから」


 父さんはシーグルス兄さんを一瞥し、小さく溜息を吐く。ヤーコプ兄さんはシーグルス兄さんの冷たい笑みから目を逸らし、時間をかけて、頬の中にためた空気を吐き出した。僕はその始終を、見て見ぬふりをした。音楽隊が演奏を再開する。彼らは何事もなかったかのように、顎に、床に、或いは空と指で楽器を支え、夕食に相応しい落ち着きのある音楽を奏で始めた。

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