魔女の呻きはキィキィと 2
広場は最低限の建物と高級邸宅が一つあり、先程の貴族が別荘として使っているほかは普通の駅と変わりないようだ。
僕は立ちこめるタバコのにおいに思わずえずく。身なりの整った商人たちが葉巻を咥え、タロットを持ってカードゲームを楽しんでいる。机と椅子以外にはない簡素な屋台の席は一杯で、アルコールの臭いとタバコの臭いが入り混じり、煙となって山の空へと登っていく。
エルヴィンは何を言うでもなく平然と屋台で夕食を頼み、柔らかい小麦パンとパイスープという中々に凝った献立を持ち寄る。
僕の顔を見た彼は、席をタバコのにおいから最も遠い場所‐即ち、屋台の手前‐に決めた。
僕は彼と向き合う形で座り、神への感謝の言葉を述べる。それは、久々の温かい食事へ対する、最大の敬意であった。
「さぁ、冷めないうちに」
エルヴィンはパイを崩し、よくスープに馴染ませて食べる。
僕はパンを先に一口齧り、バタールの固さを思い出して郷愁を感じつつ、パイを崩した。コンソメの好い匂いが一気にあふれ出す。湯気が一杯ににおいを追い出し、黄金色に輝くスープを隠すために立ち上る。先程までえずいていた僕が、余りの心地よさにスプーンを持ったままで溜息を吐く。口に運べば、干し肉のそれとは全く異なる、優しい塩気が口いっぱいに広がる。
言いようのない安堵感と、高揚感。この感覚は、かつての食卓では感じたことがなかった。暖かい食事や鮮やかな色味から離れて早一週間たつ。国を跨ぎ、追手の目が行き届かない森林地帯を駆け抜けたにしては速くついたように思う。
僕はパイスープを慈しむように掬う彼を見た。殆ど寝ずに馬車を動かしたエルヴィンの疲労は相当なものだろう。
「有難うございます」
僕は思わず言葉を漏らした。エルヴィンは意外そうに僕を見る。
暖かいスープの中から優しい湯気が立ち上る。その香りが芳ばしいパンの匂いと共に鼻をくすぐる。ノースタットやゲンテンブルクでは見られない遥かな山の連なりと星々の瞬きは、目には眩しく、そして優しくも感じられた。
彼は潤んだ瞳で僕を見つめ、困ったように笑う。
「どういたしまして」
照れ隠しなのか、食べかけのパンを一口で放り込み、舌の上で転がす。僕は何となく綻ぶ顔を持ち上げ、彼の一挙手一投足に注目する。
何となく癖もある。例えば、足を組む癖、肘をついてスプーンをふらつかせる癖。嚥下するたびに奇妙な音を立てて舌を打つ癖。
こうしてみていると、エルヴィンという馬面の人物は、実に人間臭いのだと気づかされた。かなり他人を気にする傾向がある事には気づいていたが、彼の個性にはあまり関心を抱いてこなかったのだろう。
僕が彼を観察していると、彼は咳払いをする。僕はスープを啜り、誤魔化した。彼は一拍置き、言いにくそうに言葉を詰まらせる。
「あの、私が、なにか?」
僕は黙って首を振った。彼を観察したまま、その後も沈黙を続けていると、彼は再び咳払いをした。
「あの、何かあれば、言ってください」
僕は微笑んだ。
「エルヴィンって、どんな子供でした?」
「え?私ですか?ゲンテンブルクでは、えぇ。普通の子供だと思いますが……」
「ゲンテンブルクの子供ってどんなのが普通なの?」
更に詰め寄ると、彼はおどおどとし始めた。僕は彼をじっと見つめ、返答を待つ。
「そうですねぇ。本を読んだり、親の手伝いをしたり、あとは……はい。虫なんかが好きでしたね。虫の標本を集めていました」
「虫が好きなんですか。じゃあ、僕と話が合うかもしれませんね」
真面目な少年時代の彼は容易に想像が出来た。今の雰囲気とまるで変わらない、相手を慮る穏やかな少年。そのくせ、自分の好きなものには多弁になり、勉強もよくできる。
彼はそういう子供だったのだろう。僕の年の頃には、すでに働いていたに違いない。
これまでにない僕の質問攻めにたじろぐ彼の姿は面白くもあり、また申し訳なくもあった。
僕はスープを掬い上げて吸い込んだ。涙のような味が口の中に広がる。暖かいものがのどを通り過ぎる。
「コムラサキが好きで……よく川べりを歩いていました」
エルヴィンは、少しだけ恥ずかしそうに口の端で笑う。僕は前のめりになり、うんうんと頷いた。
「コムラサキ!凄い、たまにしかみませんよ」
「分かりますか、わかりますか!たまに現れるんですよ、地元の川に!すぐにいなくなってしまうもので、えぇ、本当に貴重なんです!」
「そうですよね!僕なんか全然持っていないんです」
僕が言うと、エルヴィンは鼻高々に答えた。
「そうですか、ではゲンテンブルクに辿り着いたらお見せしますよ。私もなかなか仲間がおらず、肩身の狭い思いでしてね」
彼は心底楽しそうに体を揺らしながら答える。僕はエルヴィンの揺れに応えるように頷き、蝶や、甲虫や、芋虫や、蟻などのマニアックな種の収集話を聞いた。
彼の楽しそうな笑みは、中々みられるものではない。
気が付けば屋台は閉まり、カードゲームをしていた商人はチップを弄びながら宿に戻っていった。僕達は顔を見合わせて笑う。
満天の星空に、薄っすらと霧がかかり、雲海が山頂を隠す。疎らな別荘の灯りと、尽きない宿の灯り。
冷めたスープの強い塩味も、程よいアクセントのように思えた。