虹と大空を手に入れて 46
駅舎から町を歩く間中、僕は兄さんの事を考えていた。兄さんには守るべき血があった。彼は望むものを手に入れられなかったが、僕にはきちんと別れを告げてくれた。少なくとも、僕はそう感じた。
ノヴゴロドの町は騒々しい楽しみに満ちていた。木造家屋の隙間に建てられた、鐘のある吹き抜けの市場には、ハンカチーフや、色とりどりの綿布や、煌びやかなシルクがある。それを運ぶコボルト奴隷と主人は互いの意思疎通もないままに各々の仕事を完璧にこなし、道には小僧がお使いの為に駆け回る。どこにでもある穏やかな昼下がりだ。
広告代理店の彼が今回機械の音に乗せたのは、何てことはない暖房器具の宣伝で、その内容は持ち運べる暖炉の発明という、奇妙この上ないものだった。燃料は石炭らしく、とにかくいつもよりも暖かい中で読書できることを喧伝している。それが何処か馬鹿馬鹿しく聞こえたのは、兄さんとの別れが僕の中で大きな出来事だったからだろうか。
「おぉ、旦那ぁ!ご無事で、何より!」
聞き覚えのある声に振り返ると、今まさに演奏を終えたという様子のトルドリューポフが手を挙げて挨拶する。僕は口の端を持ち上げて、小さく持ち上げた手の平を見せた。
「いやぁ、あの時は一体何事かと思いましたぜ、旦那さんも、大変ですねぇ」
「いえ、そんな。痴話喧嘩みたいなものです」
僕がそう答えると、彼はきっと眉を持ち上げて歯を見せ笑う。実に豪快に、愉快に笑うと、先程の観客だろうか、銅貨を一枚集金箱に放り込んだ。
「いやぁ、痴話喧嘩たぁ、旦那さんも肝が据わってますねぇ。そうだ、一曲如何ですか?」
そう言うと、彼はさっと集金箱を仕舞う。僕は苦笑いで一言断りを入れた。しかし彼は、それに応じようとせずに、持ち上げた集金箱を大切に仕舞った手で、奇妙な弦楽器を持ち上げた。
「新曲ができたんです。お代は良いので、旦那も是非聞いてください」
僕は聞く気が起きなかったが、厚意を無下にもできず、彼が用意したらしい木箱に腰かけた。それを確認して、彼は深々と礼をする。そして、弦楽器を二、三度弾いて音を確かめると、快活な笑みで声を張り上げた。
「それじゃあ、いきますよ!」
彼は、始めは数秒間で移ろう謝肉祭の歓声を奏でていたが、やがて息を吸い込み、目を閉じて歌い始めた。
‐ちょっとそこの御仁、俺の愚痴でも聞いてくれ 誰も信じねぇ俺の愚痴を
俺ぁ世界一の幸せもんだ 俺にかかればすべてはうまくいくもんさ
ほら、そこで、鳥ががぁがぁ鳴いてるだろう?あれは人って奴のしわざでさぁ
なんでもくっちまうんだってさぁ つるつるの禿げた気味悪い奴それが人間てやつなのさ
俺は始めはこれに食われて いてぇいてと喚いたのさ
間抜けな顔の俺の事、ちょっと馬鹿とか思うかお前?
でもよ、俺は世界一の幸せもんさ 何だって俺がうまくやるんだぜ
だってよ、こいつらまずそうに 鳥の羽剥ぎ、肉を食うんだ
だったら俺がうまい肉 食わせてやれば幸せだろうが
ほら見ろ、俺は世界一の幸せもんさ こいつらの腹満たしてやったぜ 今度は何を満たしてやろうか?
あぁ、そうだ、お前の心を満たしてやろう
丁度そこにあったよな? そうだ、そいつが俺の音 俺しか奏でない音さ
俺は世界一の幸せもんさ 今度はこのツルツル野郎が
俺の音で腹いっぱいさ どうだ、一寸は納得したか?
「俺の愚痴ってば本当だ」って‐
賑やかな音に乗って、悲壮な鳥の歴史が紡がれる。僕は恐らく、それの事を知っていた。歌い終えたこの男は、満足げに余韻に浸り、目を瞑ったまま、「どうですか?」と聞いてきた。
僕は静かに紙をとペンを取る。彼は僕の答えを待っていた。
「何故貴方はそんなに、幸せだって思えるんですか?」
「それはですね。俺はこう見えて世界一幸せだからですよ。俺の肉は世界一うまいし、俺の音は誰が聞いたって楽しいでしょう?俺自身が幸せに見えなくても、俺が幸せで、相手が喜ぶなら、俺は世界一幸せな男だってことですわ」
「僕にはそうは思えませんが……。とてもいい考えだと思います」
僕はこの男と一歩でも距離を置きたかったが、同時にどうしようもなく幸せを祈りたくもなっていた。雑踏は彼の歌に足を止める。必要以上に楽し気な歌に、彼らは何を思ったのだろう。静かに彼にチップを投げて、ささやかな拍手を送っている。彼は大層嬉しそうに頭を掻く。
僕が鳥の絵を描き終えたのは、彼らの拍手が止み、鐘楼の鐘が夕刻の祈りを告げる少し前だった。
そして僕の絵を見た男は、再び頭を掻きながら、「ね?俺は世界一の幸せ者でしょう?」と、実に偉そうに言って見せた。
モーリシャスドードー
学名:Raphus cucullatus
16世紀末に発見され、モーリシャス島に生息していた「飛べない鳥」。ハトの類縁種であり、非常に鈍重な動きから、航海中の食用肉として狩猟された。絶滅の原因は多岐にわたり、入植者による狩猟の他にも、外来生物による卵や雛の捕食、森林伐採による生息域の減少によって、個体数を減らしていった。
ドードーは絶滅動物の代表格として有名であるが、その特徴は鈍重な動きと警戒心の薄さ、地上での営巣にあり、これらは全て天敵がほとんど存在しなかったことに由来する。その為、自己防衛の手段をほとんど持ちえていなかった結果、外来生物や人間による住処の破壊を許してしまった。
食用ではあったものの、焼くと肉は硬くなり、それ程美味しい代物ではなかったようで、人々はこの生物を「嫌な鳥」と呼んでいた。
体毛もいくらか退化しており、頭部の皮膚が裸出していたほか、鳥類の長い尾羽を持たなかった。
その知名度に似合わず、現存する剥製は体のごく一部を残すに過ぎない。これは、当時の剥製の保存状態の悪さの為に、腐敗が進んだものが多かったなどの原因がある。
1681年の発見を最後に、ドードーは見られなくなり、絶滅が確認された。
 




