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異世界動物記 ‐あるいは、もう出会えない君たちへ‐  作者: 民間人。
第六章 虹と大空を手に入れて
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虹と大空を手に入れて 44

 当該会議での決定事項は以下の通りだった。

 第一に、エルドは、エストーラ家の持つ相続権を全て、恒久的に放棄する。但し、シーグルス・フォン・エストーラが譲歩によってこの権利を放棄した時はこの限りでない。

 第二に、シーグルス・フォン・エストーラは以後ムスコール大公国内部に対する政治的干渉及び経済的攻撃の一切を行わないことを誓う。これは、彼の統治する国家の明示的、暗示的な布告の有無に限らない。

 第三に、プロアニア王国政府はこれらの二国間の取り決めに致命的な決裂が生じた場合に、経済的制裁を加える事で警告を発し、そしてその後6か月を超えて決裂が継続する場合には、その良心に従っていずれかの正当な意見を持つ国家と共に決裂の原因となったと考えられる国家に対して軍事的制裁を加える事ができる。

 第四に、エルドの没後、その財産の相続権はシーグルスには与えられない。

 第五に、これらの取り決めは、今後四か国条約満期及び解消の有無にかかわらず継続する。


 これらの取り決めがどのような意味を持つのかについては明確だが、敢えて重要な事項を整理すると、この取り決めにおいてプロアニアはエストーラに対して政治的に優位に立った点、ムスコール大公国が政治的安定の時代を再構築するために有効な取り決めとなった点にある。

 この二つは、浮動的な地位に陥りがちな僕にとっても非常に重要な点で、エストーラの拡大政策を阻止しつつ、ムスコール大公国やプロアニアの庇護下にあるという僕の状況を維持できる。これによって、僕の生命の危機は大幅に減衰する。相変わらずエストーラ帝国皇帝シーグルスの名のもとに、僕を処分しようとする疑いは消えないものの、これを大義名分を以てプロアニアが「能動的に」阻止できる事は、エストーラへの強力な抑止力となる。第二に、ムスコール大公国の政治的安定は、エストーラがプロアニアへの攻勢をかける足止めとして非常に有効だ。彼らは軍事的には攻勢をかける事に向かない力しか持たないが、天然の要塞である厳しい環境に守られており、プロアニアを経済的に支援する事が出来る。そして、経済的問題はプロアニア最大の問題である資源の問題を解決するものであるため、エストーラは益々攻めづらくなる。まして、四か国同盟の中でも強固な同盟関係にある両国が、いずれかの軍事行動に対して敵対的な立場をとる事はほぼあり得ない。この事実こそ、エストーラがムスコール大公国内政の崩壊を期待した理由であって、プロアニアへの破壊工作を謀った理由であったのだから、この取り決めの意義は小さくない。

 直近でのムスコール大公国内の動きを纏めると、上層部からの求めに応じ、風車小屋からの解放修道会解体への動きが一気に加速した。それに先導されるようにして、民衆は商業組合を通した自警団結成の動きを加速させた。これは、国家全体が内部からの破壊活動に初めて(過剰なほどに)警戒をした彼らによる大きな軍事的結託の動きだったが、その多くはあくまで都市の自衛に専念する組織であって、却って軍事的な虚弱さを補う事に貢献したと言える。

 ムスコール大公国内の大きな動きは、僕が「これからの事」を考えるにあたって大きなきっかけとなった。

 要するに、僕は一先ず安息を手に入れたわけだ。


 さて、安息を手に入れた後には、まずこれからの事を考えなければならない。ノヴゴロドの景色は何処か他人事のままで行き去り、細雪が小雨に変わる頃まで、僕は参事会館の一室で過ごした。


 ハギウチと干潟の写生を長く繰り返したメモ帳には、ノヴゴロドの町角が移ろいゆく様が挟まれている。長い長い冬の季節に、白い息を手に吹きかけて描いたこれらの絵には、少しずつ動いていく人々の時間が閉じ込められていた。


「変わらない」為に全力で駆け抜ける野生の世界と、「変わりゆく」事で生き残ろうとする人々の世界の間を行き来しているこのメモ帳も、終に最後の頁を数えるに至った。


「ご主人様」


 すっかり小市民の暮らしに慣れ、元々の長身に加えてふくよかな頬を手に入れたジェーンが、写生する僕の隣に座る。彼女は足をぶらつかせながら、恥ずかしそうに笑うと、僕に自作の絵を差し出した。


「おぉ、上手だね」


 彼女の絵は、端的に言って拙かった。サクレの昔の絵と比べても拙い。しかし、どこか憎めない魅力があるのが、子供らしい愛らしさなのだろう。身長のために少しばかり辛かったものの、僕はこれを讃えてジェーンの頭を撫でてやる。完全に気を許してくれたのか、防御動作もない事が嬉しかった。


「ご主人様、人間は好きに、なれましたか?」


「……どうだろう。分からないな」


 正直なところ、それは過去の自分に対する迷いだった。前世の記憶を持って生まれた以上、僕は彼らを憎まなければならないのかもしれない。兄さんの執拗な攻撃にも、随分辟易した。精神的にも肉体的にも摩耗した僕の心を支えたのは、僕と同じ境遇の仲間達だった。


 ノヴゴロドの町に燦々と照り付ける太陽が、僕達の目を痛めつける。僕は目を細め、行き交う人の波に次々と筆に走らせる。町には太陽の光よりも多い木造の壁に阻まれた陰が落ちる。道行く人々はそれに当然のように踏み込み、そして通り抜けていく。雪の透明な残り香が青空に香る。土の上に積もった雪の泥濘が懐かしく思われた。


「でも、好きな人は沢山出来たよ」


 自分を殺す事に安息を得ていた頃の僕は、もっとずっと強かったと思う。簡単に切り捨てられるものが多かったから。

 ジェーンは嬉しそうにくしゃりと笑った。いつの間にか、春に鼻の奥で起こるむず痒さが雪の残り香に勝っている。僕は何となく恥ずかしくなって、鼻の上をかいた。


 落穂ひろいの幻を見たハギウチは大空を飛んでいる。立春の喜びに謝肉祭の幻が見えた。


「サクレは、どうなんだろう」


 不意に言葉が零れた。誰かの事を思う時間が増えたのを感じる。


「サクレさんは、貴方について行くと、思います」


「え……?」


 不意を突かれて、僕はジェーンの方を向く。ジェーンは、ヤトを抱き上げて、毛繕いをしながら微笑んだ。


「サクレさんは、きっと貴方の事が大好きになったと思います。だって、ご主人様はとてもやさしい人だとわかったから」


 遠くのハギウチが屋根の上に止まる。羽休めをする彼らは互いに思い思いの箇所を毛繕いしながら、けたたましい合唱を続ける。

 騒々しいと思いつつ、それが少し微笑ましくもあった。


「そうだと良いな、って思うよ」


「そうですよ、私がそう思うんですから」


 遠ざかる冬の名残が、町民の笑い声にかき消される。町を通り抜ける穏やかな風と共に窓の向こうに目をやると、サクレがルプスを連れまわす姿が見えた。彼らは酷くちぐはぐなままで歩調を合わせ、互いに悪態を吐きながら、好き好きにノヴゴロドの食料品を買い歩く。

 ハギウチの群れは空高く羽ばたいた。心地よい温度の上昇気流に乗りながら、太陽の方へ消えて行った。


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