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異世界動物記 ‐あるいは、もう出会えない君たちへ‐  作者: 民間人。
第六章 虹と大空を手に入れて
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虹と大空を手に入れて 40

 どれほど走っただろうか。町の姿など遥か彼方に消え、森林は深い闇に包まれている。もはや夜も昼も区別がつかないが、ただその手にはフランが生きている事だけを確認できる。代り映えのしない木々の乱立によって、僕の視界は殆どが塞がれていたが、フランのお陰で後方と前方の道だけが、確かに続いているようだと理解できた。


「ぅゎぁぁぁああ!」


 彼方から涙に震えた悲鳴が響き、徐々に近づいている。


「……イェンス閣下だ」


 僕は足を止めた。この悲鳴の意味は、恐らくシーグルス兄さんと遭遇したからなのだろう。フランは息を切らせながら僕の言葉を待っていた。判断は任せる、という事のようだ。

 仮に僕が声のした方へ向かったとして、僕は彼を助けられないだろう。僕はフランの手を強く握りしめた。


「……行こう。閣下はこういう時には強い人だ」


「蛮勇を持たない人の強さね」


 フランは静かに言う。僕は頷き、再び森の中を歩き続けた。

 しかし、徐々にイェンスの声が近づいてくる。僕は再び立ち止まり、今度は声の方を向いた。


「罠かもしれないわよ」


「分かってるよ。それでもさ……」


 シーグルス兄さんと遭遇し、イェンスが正気でいられるとは到底思えない。脅しをかけられたならきっと簡単にそれに応じるだろう。

 そう、僕が考えたとしても、この叫びを聞き続けるのは、精神衛生上よくない。僕の過去を思い起こさせるからだ。

 僕は黙って待つことにした。フランは戸惑ったようだが、直ぐに気を持ち直したらしい。僕の我儘に随分付き合ってもらっているのが、少し申し訳なく思えてしまう。


 声が徐々に近づいてくる。僕はフランの手を握ったまま、声のする方を凝視した。人影が現れると、僕は身構えてそれを迎え入れる。いざという事もあるかもしれないからだ。

 イェンスは僕達の目の前で足を止め、息も絶え絶えのまま、消え入りそうな声で言った。


「エルド様……!シーグルス帝が……!」


「分かってる。ありがとう。直ぐに逃げよう。ほら、速く!」


 僕は彼に手を差し出した。イェンスは一瞬間抜けな顔をして、次にフランの方を見た。僕が彼の応答を待っていると、彼は我に返り、僕の手を取った。それとほぼ同時に、フランは手を離し、早口に「行きましょう」と言う。僕は頷き、ここまでで体力を使い果たしたイェンスをいたわりつつ、早足で歩き出した。


 そのままイェンスはしきりに後ろを気にして僕達に付き従う。いよいよ罠を確信し始めた僕とフランは、目配せをしながら周囲を警戒する。

 すると、突然ずん、という地鳴りが響く。イェンスは小さな悲鳴を上げた。僕は即座に身を屈める。


「落ち着いて、これは動物かも知れない」


「そんな巨大な動物がいるの?」


「伝承の中のような話だけど、ここにはジャバウォックがいるはずだよ。信じがたい事だけど」


「ジャバウォックね……知らない名前だわ」


「本当は気になるけど……気にせずに行こう」


 地響きはより強くなる。この極限状態で彼の事を構っている暇はないだろう。それについては一同が同意し、直ぐに地響きから方向転換して歩く事にした。


 暫く歩くと、今度はジャバウォックよりも軽い足音が聞こえる。全員がその足音にこそ警戒心を抱いた。烏が飛び立ち、木漏れ日の明かりさえ遮られる。大きな地響きが鳴りやむと、それにこたえるように狼の遠吠えが響き渡った。恐怖が森全体に広がったようで、自然と緊張感を煽る。木から雪崩れる雪で濡れた地面がぐしゃりと靴の下で鳴り、僕達は身を寄せ合って周囲を見回した。


 そして、それは、既に剣を抜いた姿で現れたのだ。


「……!」


「やぁ、また会ったね。エルド」


「兄さん……」


 イェンスが悲鳴を上げる。僕は彼の腰辺りを掴み、兄さんには聞こえないようにイェンスに囁いた。


「ジャバウォックの反対方向に逃げて下さい。時間稼ぎ位は出来ます」


 イェンスはそのまま固まった。僕はイライラしながら、シーグルス兄さんを睨み付ける。兄さんは微笑を浮かべながら、にじり寄ってくる。僕達は一歩ずつ、一歩ずつ後ずさりした。


「兄さん。僕を殺したとしても、貴方の名誉に傷がつくだけですよ」


「そうだね。だから君には、僕の下に留まってほしかったんだ。素直に、僕に協力してさえくれればよかった。それで、僕達はこんなに悲しい別れをしなくて済む。そうだろう?」


 兄さんはあくまで表情を崩さない。僕は二人に懸命に逃げるように促す。全く通じていないのか、彼らは僕の後退に従っているだけだ。


「いいえ。貴方は、きっと僕を殺すでしょう。分かっているんです、政敵になるような不安分子を残すような人ではないと」


 そう言うと、兄さんはゆっくりと顔を持ち上げ、顎を僕達に見せるようなしぐさをした。僕は少し顔を下げる。それが、家族の樹を拒む仕草であることを知るのは、ここにいる中で僕と兄さんの二人だけだ。


「残念だね。下顎を見せてくれないとは」


 兄さんの声は段々と暗く、それに伴って剣は鈍色の輝きを増す。木漏れ日が再び顔を覗かせたその時に、逆さに向けられた刃は月光を鋭く反射した。

 逆光の中の微笑。追い詰められた鼠をいたぶる猫の眼光。弄ぶ鉄の刃には、僕達の青ざめた顔が映る。僕はそれを見て、顔を顰めて抵抗した。それでも恐怖が抑えられるわけがない。兄さんは森の向こうに視線を逸らし、眉を下げた。


「……貴方が何をしたか。それは貴方が一番わかっている事です。ヤーコプ兄さんは疑り深い方でしたが、貴方のように狂ってはいなかった。まして、あの穏やかな父さんを殺すなんて……!」


 兄さんは半笑いで切り返した。


「助けてあげた恩を忘れてもらっては困るなぁ」


「ふざける……」


「ふざけるな!」


 背後からの叫び声に身が竦む。男性の震えた声に兄さんの冷たい視線が向く。僕の背後で臆病に震えていたイェンスは、僕の前に立つと、右のポケットを構いながら、兄さんを睨み付ける。


「エルド様。貴方に汚い言葉は似合いません。……シーグルスよ、私の敬愛するレーオポルト陛下を侮辱する事は許さんぞ」


「へぇ。残念だね。君がそう言う事をするとは思わなかったよ」


 瞬時に兄さんがイェンスの首元に剣を突きつける。月光に照らされた刃はイェンスの首を簡単に持ち上げさせた。イェンスは、僕がしたようなことを僕に行った。でも、と言おうとするのどを、彼は持ち上げた顔をのけぞらせて遮る。僕はフランの手を取り、地響きのする方へと駆け抜けた。


「それで?君はどうするんだい?このまま、切り刻んでもいいのかい?」


 兄さんは静かに、威圧的に聞き返した。


「貴方は、私の名前を憶えていますか?陛下……」


 イェンスはポケットから手を取り出し、その瞬間に兄さんが先程と真逆に距離を取る。影を貫いた銃声が、僕の背中越しに響き渡った。それでも背後だけは見ないで駆け抜けた。


 イェンスの弾丸は正確に兄さんの足を狙っていた。しかし、その弾丸はイェンスの背後にあるはずの木を貫通していた。兄さんは首を擡げて笑う。

 イェンスはそれでも、主人の背中にだけは縋らなかった。彼もまた、僕と同じように、僕に彼の主人の面影を感じ取っていたのだろう。


 イェンスは何度でも発砲したし、僕はその音を何度も聞いた。その全てが無駄であることも、彼はきっと気付いていた。どこを狙っても、彼の弾丸は背後の木を痛めつけるだけだという事も。それでも、彼は絶対にそこを退こうとはしなかった。今度は不慣れな剣を抜き、激しい剣戟を繰り広げた。異様な静寂の中で、鉄が擦れあう音だけが響き合う。一方は必死に、また一方は軽くあしらうように。そして最後には、その「虐殺」も止んでしまった。


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