虹と大空を手に入れて 39
シーグルス・フォン・エストーラにとって、最も心労となっているのは逃げた弟であるエルドがどこかの国と結託してエストーラの帝位を奪うのではないかという懸念であった。
もし仮に本人にその気がなくとも、エルドを利用しようとする悪意ある人物……例えば肥満体質のステラ・フォン・ホーエンハイムなどが好例である、によって彼と自分の対立が生じることもある。それは当然のことで、貴族であれば当主になりたがるものであるし、自分の計画に少しでもほころびが生じる事を防ぐ目的もあった。しかし、取り逃してしまった後は、それは最早単なる執着になり下がったことを、彼自身が少なからず自覚していた。エルドという、恐らく貴族社会で最も力を持たない存在に対して、自身が後れを取ったことに対する言いようのない劣等感が多少なりとも混ざっていたことを認めざるを得なくなったのだ。
しかし、彼の優れた点はそれを周囲に漏らさず、あくまで理性的なサトゥルヌスを演じたことにある。いよいよ狩りも難しくなってきたという段階に至って初めて、彼は終に自ら進んで危険に踏み込む事を決めたのだった。
捜索していた対象は森のごく浅い所に、無防備で身を屈めていた。それは彼にとって幸運なことで、銃で足を撃てば簡単に仕留められた。しかし、彼は貴族としての名誉を重んじる事を選んだ。即ち、彼自身のあらゆる力を以て、エルドに引導を渡すことで、最終的な勝利を得る事を望んだのである。
森林の中の歩きにくさは彼にとっては非常に不快に感じられたが、対象はそれを飛び越えて逃げていったのだ。彼は含み笑いで散策を楽しむように彼を追いかける事にした。
冷静に道を進むと、迷子にならないように付けた幾つかの切り傷が木々にあることを確認できる。彼はそれの上に自分のサインの頭文字を書きながら、自らもそれにあやかる事にした。
幸いなことに、彼はエルドを簡単に見つけることが出来る。熱源を探る魔法を用いれば、森の中に幾つかの人型を見つける事は容易いからだ。彼は意気揚々と熱源を追いかけながら、自分に迫ってくるもう一つの熱源に対しても実に余裕綽々とした表情で無防備な背中を見せびらかした。
ノヴゴロド周辺の森は完全な防寒装備を整えたシーグルスにとっても苦しいものだった。手のかじかみもさることながら、なによりも足元が悪い。剣戟で劣る相手ではないし、まして実地経験に関して後れを取ることは無い。知識の上でも知恵の上でも、対象はシーグルスにとって大した脅威ではないはずだった。しかし、この足場ばかりはどうしようもない。そこで、ゆっくりと歩きながら、相手の動きが止まるのを待つことにする。追いかける事を従たる目的とするとなると、気にかけるべきは彼の背後に迫る陰だった。
支柱の迷路の様相を呈する深い森の中を、ランダムに移動する一つの熱源。明らかにこちらと同じようにそれを探し回っており、エルドを追う存在であるように思えた。煩わしいのはその他の野生動物の群れで、人間型の熱源とそれらを見間違う事がないようにしなければならなかった。シーグルスは一旦立ち止まり、少し思索に耽ったうえで、踵を返した。
暫く歩くと、シーグルスが見つけたのは汗だくの、見栄えの良くない男だった。その男はシーグルスを認めると、途端に青ざめ、ガタガタと震えだした。シーグルスはにっこりと微笑み、剣を抜いて近づいた。
にじり寄る陰は男よりはるかに若いにもかかわらず、凄まじい威圧感で男を追い詰めた。
「へ、陛下……おやめ下さい!私は……」
「止めてもいいのだけれど……。君は僕を裏切ったようだからね」
シーグルスは柔和に微笑む。目を見開き怯える男はそのがたいのよい風格からは想像もつかないような情けない声を上げ、潤んだ瞳でシーグルスを見上げた。跪く彼に向けて、剣は何度か頭上を通過した。左右に頭の上を通過し続ける剣は、男の恐怖心をあおるのに十分だった。彼は頭上にある剣の影に身を震わせ、今度は嗚咽を上げ始めた。
「……どうしたの?もしかして、怖がらせてしまったかな?いや、大丈夫だよ。僕は今、君に選択する余地を与えているのだから」
「陛下……。私は、貴方に害を与える事など出来ません。陛下、どうかわたしを許してください。私は貴方の敬虔な従者であることを誓います」
「……それで?僕は君を助けるメリットがあるのかい?」
「私は今、エルドの味方を演じております。つまりは……陛下の手を汚さずに、その寝首を掻く事も出来ます……。どうか!どうかご慈悲を、陛下!」
シーグルスは二、三度頷き、剣を鞘に収めた。男の感涙にむせぶ手を取ると、彼は柔和に微笑み、エルド達のいる方向を指さした。
「それでは行こうか。僕の声を聞き逃さないように」
男は黙って頷いた。シーグルスが気の毒なほど震える肩をポン、と叩くと、男は奇声を上げながら走り出した。シーグルスは小さく溜息を吐き、その後に続く。男は涙を流しながら、木々の根に足を取られながら、自らの無力を嘆いた。
「うわぁぁぁぁ!どうか、どうかぁぁぁぁ!!」
イェンスは、もはや穏やかなレーオポルト帝の下には戻れないのだと、それが自分の罪なのだと気づき、更に重ねるであろう自らの罪について祈りの言葉を捧げた。その告解に答えるのは聖職者ではなく、深く先の見えない森の騒めきだった。




