虹と大空を手に入れて 36
夕刻のベーリング海は決まって茜色の乱反射する暖かな彩色に満たされていた。海上を覆いつくす赤い光は激しく揺れ動く海面に従って時に波打ち、時に顔を覗かせる巨大な影を露わにする。
波打ち際の浜辺には数隻の船があり、これまでに多く見られたような穏やかな浜辺に人の姿を認めると、その鈍間な巨体は震え上がった。凍てつくベーリング海に、その小さな生き物が現れたのはつい最近ことであった。
ほんの四半世紀ほど前、海を渡る巨大な建造物‐我々は今となってはそれを船であったと認識している‐がこの浜辺に打ち上げられた。そこからわらわらと現れたその生き物たちは、殆ど半数近くがあまりにも具合の悪そうな連中であって、我々は同情する事はあっても危害を加えることは無かっただろう。何故なら、我々の関心はあくまでうまい昆布を見つけて食べる事なのであって、貧相で不健康で、特別に価値の薄そうな生物に過度に干渉することなど、考える事も無かったのだから。
しかし、その事情が変わっていったことは、直ぐに気がつく事になった。この生物は自らの命を守る為に穂先の鋭い長い棒‐私は恐らくそれを銛や槍であると認識している‐を持って私達の背中に刺したり、糸を絡ませて首を絞めたりした。私達は仲間が大変なことになっている事に気付き救助に当たったのだが、そうすると背中が熱を帯びるのが分かった。彼らは執拗にこの棒で私達を貫き、不幸な仲間を助けようとする善意の仲間たちも又、同じように槍か銛で貫かれた。
貫かれた仲間や首に糸を絡みつけられた仲間がどうなったのかについてだが、私達にはそれを解いてやることくらいしかできなかった。
要するに、背中を海面から出して無防備に浮かび、うまそうな昆布を探すだけでよい日々に、銛や槍で貫かれないように体を鍛えるような余裕はなかったのだ。脂肪をたっぷり含んだふくよかな腹で越冬するよりほかに考える事があったならば、我々はとうに絶滅していただろう!少なくとも、そのおかげで私達は背中を丸出しにして昆布を探すことが出来たのだ。
喜びの季節である春には痩せ細った体で繁殖し、そして子を群れの中心で守りながら、溶けた海を泳いで再びうまい昆布を探したものだが、今や私達の暮らしは死と隣り合わせの危険なものとなったのだ。
そしていまや、海上を覆いつくすほどいた仲間は既に数頭しかいなくなってしまった。昆布を探す際には私達の仲間だった死骸や骨片が海底に沈んでいたし、いたたまれない気持ちにさせられたものだ。
海面を覆いつくす陸地のようなひだまみれの分厚い背中と、細い首と、フジツボのついた体躯は、今や数えるほどしかいない。呑気に昆布など食べている場合ではなかった。だからといって、我々には逃れる術もなかったのである。
船が私達に近づいてきた時、遂に我々は覚悟しなければならなかった。私は子供や、伴侶や、そう言った者達を見捨てて逃げる事にした。槍や銛で突かれたり、縄で首を絞められるのはたまったものではないのだ。蹲る仲間たちをよそに、私はすいすいと沖へ、沖へ進んでいく。何かに駆り立てられるままに、必死に。
もっとも、それで私が助かったのかと問われれば、私は助かっていないのだ。弱さとは罪だ。私は人の「強さ」に激しい憎しみと羨望を抱きながら、海の藻屑と消えて行ったのだった。
「君は、私が励んだ努力の成果が、単に無価値なものであったとは言うまい。しかしね、君の言葉には私の捨てた事が間違っているとでも言っているように思うのだがね」
ステラは長い沈黙の後に、そう答えた。エルヴィンは首を横に振る。ステラは怪訝そうに眉を顰めた。
「陛下。私は、貴方が未だにそれを捨てられないでいるのだと信じています。そして、その良心の為に、私のあの長い長い旅路には意味があったのだと、そう信じています」
「ほう……?」
エルヴィンはステラに詰め寄る。ステラの巨体を支えるのにふさわしい脚でも、その大地を蹴るには些か物足りない。杖をついたその体が強いのかどうなのか、ステラにはもはや分からなくなっていた。それを実に身軽に乗り越えるのは、馬面のエルヴィンの、細い体に見合った細い脚だ。
「貴方は、私やエルドに、自分と同じような面影を重ねたのではないですか?それは、貴方が貴方のかつて抱いていた感情を捨てられなかったからではないですか?」
「だが私は、そこに利益を見出したからこそ、彼を招き入れたに過ぎない」
エルヴィンは感情的になり、普段よりも激しく畳みかけた。
「そうであっても、貴方は確かに、最も危険な戦いを彼に強いたとしても、過酷な旅路の果てが喜びに満たされている事を望んではいないのですか?強くない彼が立ち向かう姿に、何も感じないのですか?」
「……好きにしたまえ。私は国に戻るぞ」
ステラは抑揚のない声でエルヴィンの言葉を遮る。エルヴィンは一瞬時間が止まったかのように停止し、みるみる笑顔になった。
「有難うございます、陛下!では、直ぐに友の背中を追ってまいります!」
ステラはそれ以上何も答えなかった。エルヴィンは無作法にも部屋を飛び出し、適当に挨拶をしながら一気に屋敷を駆け出した。
窓の向こうにある田園風景を眺めながら、ステラは重苦しい息を吐く。目を細めても有り余る恵みの光に、自らの厳しく暖かい過去を重ねながら。
ステラ―ダイカイギュウ
学名:Hydrodamalis gigas
ステラ―カイギュウは、寒冷適応型の最後のカイギュウ種であり、気候変動などの影響で個体数が減り、発見から四半世紀後の18世紀半ばに、狩猟により絶滅したとされる。
体長が非常に大きく、厚い脂肪が特徴で、非常に良質な脂と肉として、食用にも、生活必需品にも高い需要があった。
カイギュウ種の仲間であるジュゴンなどとは異なり、ステラ―カイギュウは寒冷適応の為に昆布などを主食とし、冬を越し、春になると異常に痩せ細ったという。また、体の表面にはフジツボなどが付いており、ひだのように幾重にもたるんだ皮膚も特徴である。
歯が退化した代わりに嘴のような板を持ち、これを利用して食物を擦りつぶして食べていたと考えられる。
ステラ―カイギュウには目立った天敵がおらず、海の上に背中を出し、海面に浮かぶように動きながら餌を探したとされる。
発見から絶滅までの経緯は、1741年、ヴィトゥス・ベーリング率いる第2次カムチャッカ探検隊が嵐に遭遇したことに始まる。この時、多くの船員が死亡したが、生き残った乗組員がこの動物を発見した。彼らはステラ―カイギュウの肉を食べ、脂肪によって明かりや暖を取り、乳からはバターを作ることが出来た。また、皮は船の補修や防寒具として利用され、生存者は飢えと寒さをしのぐことが出来た。乗組員の一人であるドイツ人医師ゲオルグ・ヴィルヘルム・シュテラーがこの動物について紹介すると、有用な生物として狩猟の対象となった。
狩猟方法は、銛やロープなどを用いてステラーカイギュウを攻撃することで衰弱させ、波で海岸に打ち上げられた死骸を回収するという方法がとられた。これは、この動物が非常に巨大で牽引が困難であったことなど致し方ない事情があったものの、無事に浜辺に打ち上げられた個体数は狩猟数の5分の1程度であったとされる。
また、この動物は仲間が負傷していると助けに来る習性があり、仲間に突き刺さった銛やロープを外すために、他の個体が集まってきたため、容易に大量の狩猟が可能であった。
確認されている最後の個体は、1768年に狩猟された2,3匹の個体である。その後も目撃証言があるものの、正式に認められたものではなく、1768年が絶滅した年とするのが通説となっている。
なお、ステラ―カイギュウは発見から27年で絶滅したと考えられるため、発見から絶滅までの世界最速記録を持つ動物と考えられる。




