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黒と白の境界 16

 カンテラの灯りも、松明の火も、粗末な家しかない村には存在しない。小さな茅葺の家から漏れる明かりを頼りに進もうにも、窓が小さく疎らな町並みではほとんど役に立たない。そして、そもそも灯り自体が灯っていない家も少なくない。


 稲穂の擦れあう喧騒と人気のないひんやりとした空気の中に、吊るされたフォクトネックの姿が現れる。彼は変わらずそこに居座り、捕らわれの身となった自分の形を必死に保とうと、風風向に逆らってしがみついている。

 僕はそのあまりの物悲しさに、思わず目を伏せた。僕はメモ帳を開く。旅立ってから暫く、集中的に使用されたその紙の端は少したるんでおり、指から吸い取った水分のために折れ曲がっていた。


 ペンを取りだし、物言わない毛皮を観察する。風に揺られるフォクトネックは、今となってはただの布切れと変わらないように見えた。

 夜風の肌寒さに揺られるフォクトネックの毛皮は、僕の目にはいかにも心地よさそうに映る。肌寒さから身を守ってくれたガウンも今はなく、追いかけていた面影も目の前よりもさらに近くにあったことを知り、やり場のない気持ちが込み上げてもいた。そんな中で、僕の目の前に現れたのは無力で愚鈍な「僕によく似た」動物と、僕達が無意味に削り取ってしまった魂だった。


 フォクトネックの毛皮の一本一本が風に吹かれ、微かに靡く。生きているかのように揺れ動くくり抜かれた目玉の向こうには、簡素な家の壁が見える。僕はこの動物の面影を追いかけるために、憑りつかれたように筆を走らせた。


「お兄ちゃん、何してるの?」


 ふと、僕の脇腹辺りで声がした。僕は声の主に視線を送る。あどけない少女が僕を見上げていた。

 僕は言葉を詰まらせる。毛皮を書いていたなどと言ってもいいものだろうか。盗人と間違えられはしないか。僕は取りあえず彼女の視線に合わせた。


「どうしたの?もう遅いから、寝た方がいいよ」


「つまらないもん。……何で狐さんの絵を描いているの?」


 彼女は僕の手元にあるフォクトネックのスケッチを見た。僕は自分でその絵を確かめ、彼女に微笑んで返した。


「これはね、この子達の形を覚えておきたいから書くんだよ」


「なんで?」


 僕は答えに窮する。「もう存在しないものを思う気持ち」と言うものが、彼女に伝えられるかどうか、僕には自信がなかった。

 黙っていると、少女は僕の隣に座る。僕も地面に座り込んだ。


 少女は毛皮を見上げながら、暢気に鼻歌を歌って答えを待っている。無邪気に身を揺らす姿は夜の中では発光しているように眩しく、不思議な事に警戒心や猜疑心を覚えることがなかった。寂れた村ではあったが、人の営みが目の前で行われていることに気を許したのかもしれない。やはり僕は、もう人間なのだろう。


「動物達は生きていて、僕達は動物たちの命を貰っているんだよ。だからね、こうしてそれを忘れないように、形を覚えておきたかったんだ」


 僕がそう答えると、少女は不思議そうに首を傾げた。さらりとした髪が彼女の耳を隠す。


「そうなんだ。形を覚えておくと良いことがあるの?」


「うーん、どうだろうね。もしかしたら、神様が良い人だからって、名前を憶えていてくれるかもね!」


「そうなの!じゃあ、私も書く!」


 少女は僕に詰め寄った。僕は紙を一枚彼女に手渡す。彼女は珍しそうにそれを月光にすかしたり、裏面をのぞき込んだり、手で払ったりする。その姿はとても愛らしく、思わず僕の顔が綻んだ。

 僕は、彼女にペンを持たせてやる。握り方を教え、彼女が書くものを覗き込んだ。


 その輪郭はずんぐりとした雀に似ており、足が長い。翼が極端に短く、飛ぶことが出来そうにない。鋭く尖った嘴は、何か細かいところを掘り起こす錐のようにも見える。

 そして、それが僕の知らない生物であることも、瞬時に理解した。


「ねぇ、これは?」


「わかんない。夢の中に出てきて、猫ちゃんと遊んでいるの!」


 猫と戯れる小鳥。厳密には襲われているのだろう。彼女はそれを知らず、無邪気に猫と戯れると思っている。

 強く冷たい風が吹き、荒れ狂う麦穂のざわめきで村が一杯になる。かつての記憶をなくした魂は、それをそれと知らずに通り過ぎていく。僕がそうであったように、彼女はそうなのではないか?僕は慌てて彼女の手を止めた。

 騒々しい麦の音と共に、彼女は目を丸くして僕を見る。

 村全体に広がる微かな輝きを残した星空も、フォクトネックも、些細なもののように思われた。


 彼女が首を傾げると、僕は我に返り、その手を離した。彼女は不安そうに手首を摩りながら、僕を見た。


「な、なに……?」


「ごめん、続けていいよ」


 僕は罪悪感に苛まれ、喉元がつかえる。徐々に形作られるそれは、子供らしい拙い絵ではあったが、明らかにこちらの鳥ではなかった。僕の疑惑は確信に変わっていく。そして、いてもたってもいられずに、書き終わった彼女に話しかけた。


「上手だね。それ、僕にくれないかな?」


「いいよ、お兄ちゃんにあげる!」


 彼女は嬉しそうにその絵を差し出す。僕はそれを受け取り、息を呑んだ。暫く沈黙した後、深呼吸で心を落ち着かせ、彼女を見た。


「もし、もしもだよ。君が何かを思い出して、苦しい気持ちが込み上げてきた時には、人間を嫌う前に、ここで書いた絵を思い出してほしいんだ。だから、明日、ちゃんとお礼として、僕の絵をあげるからね」


 僕はメモ帳の中から、僕の中の面影を一枚手渡す。彼女はそれを受け取り、「可愛い!」とだけ述べ、嬉しそうに抱きしめた。

 僕は喉元の苦い思いを飲み込み、微笑む。苦しい気持ちがどくどくと胃の中に暴れまわっているのを感じ、彼女の無邪気な姿を目に焼き付けた。


「それじゃあ、そろそろ夜も遅いから、ゆっくりお休み。僕も、帰るからね」


「はぁい。おやすみなさい」


 彼女は大きな欠伸をして、小屋の中に帰っていった。



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