虹と大空を手に入れて 33
包囲された参事会館に朝日が当てられると、武器を掲げた人々はその場から立ち去っていく。安堵の溜息を漏らす間もなく、彼らは参事会館の庭をぐるりと一周し始めた。
ハギウチが着陸するたびに、彼らの銃口がはらはらと動き回る。周囲の物音全てに敏感に反応する狂信者達には、僕とフランでは太刀打ちできない。
管理人の要請に従って参事会館を包囲した兵士達も彼らが実際に武器を使った後でなければ威嚇射撃すらまともにできない。世界一やさしいムスコール大公国も、この時ばかりは辟易するほどの愚か者のように思えた。
彼らが参事会館へと侵入し、僕達の捜索が始まったのを確認して、裏口直ぐの茂みの中に屈み込んでいた僕達は、死角を探して裏通り側を覗き見る。
「駄目だ、こっちにもいる……」
「逆に正門側から駆け抜けたら、守衛達が保護してくれないかしら……」
「ここからだと少し、距離がありすぎるかな」
僕は翻って参事会館の正門側、つまり大通りに面した玄関口の方を見る。何人かが参事会館に捜索に入ったとはいえ、僕達が一気に駆け抜けるには余りにも距離がありすぎる。また入り口から脱出するには、彼らの警備は十分すぎるほど慎重だ。鈍い銃口の光がそっぽを向いている。護身用に受け取った小銃に手を添えながら、彼らの視線が全て逸れるのを待つ。
「これは、本当にまずいわね……。物音を立てずに脱出することが出来ない……」
フランは中腰の足を少し震わせながら僕の反対側を警戒する。その間にも、僕とハギウチの目が合った事に思わずぎょっとした。
ルプスがうまく切り抜けてくれたおかげで硬直状態だけは確保できたが、それも僕達が脱出できるか否かにかかっている。このまま立ち往生しているわけにもいかなかった。
「エルド。数え歌って覚えてる?」
「数え歌……?勿論……」
意味が分からない。
「歌いましょう。大声で」
「えっ、今?」
思わずフランの方を向く。彼女は目を細めて笑っている。彼女はこちらに向き直ると、突然こちらに這いより、一気に空気を吸い込んだ。
「待って、待って。今?今は駄目だってっ……!」
フランは僕の口を塞ぐ。突然の事に抵抗も出来ないぼくは、くちをもごもごと動かしながら、フランに非難を込めた視線を向けた。
「今じゃなきゃ意味がないのよ。せーのっ」
「んぐぅ、ちょっと……!」
彼女はせーの、の言葉と共に僕の口から手をどける。教会の鐘が早朝の祈りの時間を告げる瞬間に、フランは息を吸い込んで歌い始め、僕も逆らえずに唱えた。
「零から世を生むは光の柱只一つ、この世の覇権はただ二つ、三(御)座から見下ろすエストーラ、カペラは四葉で花冠編み、五(娯)楽と言えば、魔女の双六、仕事と言えば、七(質)や、ムスコールブルクの八等官、九つの王冠持つ我が君主。以上、この世の素晴らしいもの」
「鷲の軍部はこのように、将軍一人、軍靴は二つ。副将三人、隊長四人。厩が五棟、兵舎が六棟。本部を除いて支部七つ、本部の官房八人と、国境には、要塞九つ。軍靴の音が、カツ、カツ、カツ」
「……!何だこの声は。詠唱か!?」
包囲をしていた者たちが、あらぬ疑いで慌てて歌声の方へ向かう。フランは僕の手を引き、茂みから一気に路地裏に逃げる。
これは一体、と思った矢先、参事会館に駆け付けた兵士達が 集団を拘束し始めた。僕はやっと提案の意味を理解して、思わず間抜けな感嘆を上げた。
つまり彼らは、魔法が当たり前のムスコールブルクで、魔術不能ばかりのプロアニアやエストーラからの使者が魔法を唱える事に慌てて対処しようとしたのだ。数え歌は韻を踏みながら数字を並べるが、それを複数の言葉で同時に語られたに過ぎないのに、ムスコール大公国の市民である暴徒はこれを当たり前のように魔法の詠唱ではないか、と判断したのだ。要するに、これは、言葉が通じない事と、魔術に関する認識の違いを利用した脱出作戦だったのだ。
当然、数え歌を歌っただけで犯罪になるほどムスコール大公国は排他的ではないし、焦って詠唱を止めようと実力行使に走った暴徒を傷害未遂の罪で拘束するのも警察権を持つこの国の兵士には出来る。あくまで国の法の範囲内で、最良の結果を作る事に成功した。
「フラン、凄いよ!」
「いいから離れましょう。ここは危険だわ」
僕達は未だ四方八方から銃声が鳴りやまない参事会館を裏から抜け、深夜の裏通りを駆け抜ける。兵士と暴徒が一斉に参事会館に雪崩込み、時折流れ弾が市壁を貫通して黒い穴を開ける。漆黒の石畳の上を、アメンボが横切る時のように静かに素早く切り抜けると、今度は大通りの出口で、暴徒が静かに銃を持って見回りをしていた。僕達は一旦足を止め、路地裏の曲がり角で身を隠す。
「余程僕達が嫌みたいだね……」
「感づかれたらまずい事をする方が悪いのよ」
フランはややいら立った様子で答える。僕達の声は元からそれほど大きくないが、今は殆ど口を動かすだけで会話していた。
その時、背後から革の手袋をした手が伸びてくる。僕は思わず叫びそうになるのを堪え、フランを自分の方に引き寄せた。小さな悲鳴が僕の胸の中で響く。
革手袋は静かに闇の中に消えると、今度は鈍色に輝く何かを持ち上げた。
凍てつく冷気が肌を掠める。冷え切った肌が震え上がるのを、僕は克明に感じ取った。
「兄さん……」
特注のアーミンのコート、火薬の匂いを隠したローズマリーの香、見馴れた白いキュロットに、落ち着いた白のワイシャツ、王族の為の金襴の縁取りのベスト。僕の顔から血の気が引く様を、それは穏やかな微笑で迎え入れた。
「久しぶりだね、エルド」
「シーグルス兄さん……」
振りかざされた剣の輝きは、暗黒の路地裏でも鮮明に届いた。




