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異世界動物記 ‐あるいは、もう出会えない君たちへ‐  作者: 民間人。
第六章 虹と大空を手に入れて
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虹と大空を手に入れて 32

 じめじめとした黴臭い地下牢には、丹念に法陣を書き重ねられた牢獄がある。残った血糊は綺麗に拭きとられているが、鉄格子の為に鉄の臭いだけは拭い去れていない。

 シーグルスは血糊など見飽きたと言わんばかりに、鉄格子を弄びながら地下牢の中を見下ろす。シーグルスに向けられた、鉄格子越しの鋭い視線は、まさしくこの世ならざる者から向けられたものだった。

 抉り取った二つの心臓から歪に生み出された悍ましい化け物は、牢獄と鎖、法陣と三重に守られておりそこから逃れる事は不可能と思われた。


「調子はいかが?ハーゲンティ殿」


 シーグルスは抑揚のない声で言い放った。怪物はメンチを切るように彼を見上げる。

 細い目は分厚くごつごつとした岩肌のような皮膚に潰されそうになっていたが、拘束具を付けられてなお優雅に座するその様から、怪物が高貴な出自であることは容易に予想される。大きなワイン樽を抱え、周囲には三本指の使い魔を携えたそれは、親指に相当する指のない五本の指でシーグルスを指さした。


「ご機嫌はいかがかな、悪魔よりも悪魔らしい御仁よ。貴方も私と酷く似通った心境のようだが?」


 冷たい水の滴る音が響く。鉄格子を隔てた口の端が歪に持ち上げられた。


「全くもってその通り。僕の欲求は酷く傷つけられているよ」


 その様子に、ハーゲンティは大仰に首を振って応じる。この怪物の同情とも嘲笑ともつかない口の端の微笑は、端正な風貌のシーグルスの眉を顰めさせた。


「そうかね、父王と比べて君は随分と荒っぽいようだ。ここまでして私を縛り付ける理由も無かろう。契約はしっかり果たしているではないか」


 怪物の言葉に、シーグルスは眉を持ち上げた。ひと時水滴の音を切り取った後で、優雅な罵り合いが再開される。


「契約しか果たさないがゆえに悪魔なのだろう?僕は君をハングリアの騎士ほど信頼していないからね」


 怪物は静かに瞼を落とし、深い溜息を吐いた。シーグルスは冷たい石の椅子に腰かけると、足を組んでやや姿勢を崩した。


「確か、契約内容によれば、『多産の祝福』と『家族の樹の繁栄』、そして、『果実の中に悪魔ハーゲンティの見立てによって選ばれた魂に改めて生を与えること』とある。確かに多産の祝福は果たされているようだが、家族の樹からはいくつか熟れた果実が落ちてしまったように思うけれど?」


 シーグルスは勝ち誇ったように言う。ハーゲンティがあからさまな舌打ちをすると、彼の耳には「無礼だね」という煽り文句が届いた。


「私は確かに家族の樹の繁栄を約束した。それを破ったのは貴方自身だ」


「契約にすら忠実でない悪魔は、僕の城には必要ないのだけどね?」


 シーグルスは首を括るようなしぐさをしながら、ハーゲンティの古びたワイン樽に向けて目を見開く。ハーゲンティは大仰な身振りで、狭い牢獄をぐるりと見回した。


「それは残念だ!では、ここに拘束具を付ける必要も無かろうね?」


 その皮肉めいたジョークに眉を持ち上げ、三度ほど水滴の音を聞いたシーグルスは爽やかに微笑む。ハーゲンティが思わず身震いするほど、その笑みは深い、深い不快感を滲み出しているように思われた。


「良いから契約に従え。代わりに心臓を二つくれてやっただろう。それともボーナスが足りなければ、もう一つそこに置いておいてあげようか?」


 シーグルスは畳みかけるように言う。静かに鉄格子から彼を見るハーゲンティは、深い溜息と共に、親指のない指を一つ、また一つと折っていく。


「僕が君に頼んでいたものは、いくつできたのかな?」


 ハーゲンティは刺すような目つきでシーグルスを睨みながら、指を弾く。法陣の中から幾つかが光り出すと、シーグルスのすぐ左隣にある殺人孔がひとりでに開かれ、大量の機器が落とされた。その数は数え切れないほどで、法陣の組み込まれたランプを明滅させながら、宿主が未だいない事を示していた。


 シーグルスは今までで最も品のない微笑を零す。ハーゲンティは憔悴しきった低い声で、祈るように囁いた。


「あまりあの子の事をいたぶらないでほしい……私が選んだ魂なのだから……」


 ハーゲンティは途端に弱々しい口調になった。暫くその様を見下ろしていたシーグルスは、水滴の音を一度だけ聞き、鼻で嗤った。


「それを拒んだのは君でも僕でもない、彼だ。彼の意思を尊重してやるのも、兄の務めとは思わないか?」


 シーグルスは嘲うように言い放った。彼の言葉に、ハーゲンティは言葉を失って俯く。主人は優雅に立ち上がり、大量の機器を兵士に運ばせながら去っていった。その背中には、貴族の羨望を一身に集める真っ赤なマントをなびかせている。


 その背中のはるか向こう側に向けて、ハーゲンティは両の手を合わせていた。

 彼はそのまま、水滴の音をいくつも聞いて、夜を迎えたのだった。


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