黒と白の境界 15
深夜の森には休む時間がない。狼の遠吠えが彼方で聞こえ、野鳥の囀りや、多くの虫の羽音、行き交う動物が草を掻き分ける音などが響き、寝付くには些か音が多すぎる。
そのうえ、僕を跨ぐ動物もおり、果物を漁る為に彷徨う動物も、僕の顔の上で寝る動物もいる。
僕が寝苦しさのあまり寝返りを打つと、しきりに木の根や石のごつごつとした感触が背中や尻に当たる。それはそれで寝心地が悪く、僕は何度も寝返りを打った。
確かに荷馬車に乗ればいいのだが、荷台には所狭しと並べられた(あるいは崩された)鎧があるうえ、野生動物に食物を漁られないためには、必然的に何らかの形で匂いや形をシャットアウトしなければならない。そうしなければ飢えるのだから、荷馬車には多くの食料を積んだままにしておく方がよい。
だからと言って粗末なテントは圧迫感が尋常ではないうえ、中も床は石でごつごつとしているため、あまり変わらない。動物が跨ぐというのも、結局はその動物が小動物の類からヤトに変わるだけだ。
一方で、焚火の近くで寝付くことが出来る点が、外で寝ることのメリットであった。
僕は直接地面に体が付かないように毛布にくるまりながら寝返りを打つ。赤い炎に集った小さな虫たちはその周囲を舞い、時々炎に巻き込まれたものが焼け死んでいく。
僕は寝付くことを諦め、身を起こした。ぼんやりと燃え上がる炎に集まる陽炎のような虫たちを見つめ、呼吸をする。
まだ生きているという安堵感と、共に、白昼夢の幻が炎の中にぼんやりと浮かび上がる。
蕩ける溶岩に巻き込まれていくオオウミガラス達は、必死に海へと逃げ込む。数少ない生き残りが辿り着いた岩礁は、かつての絶壁の上とは違い、人間たちが足を踏み入れることが決して不可能ではない場所だった。
美味い卵と肉、陸上ではあまりにも無力な僕達は、彼らにとって格好の獲物だったに違いない。海へと逃げ帰る僕達の中には、卵を見捨てる者だっていたはずだ。僕は胸が締め付けられる思いで、炎の中に手を伸ばした。
しかし、伸ばした手の向こうにあった幻は、影形なく消え去っていった。僕は伸ばした手を下ろす。
次に、僕はエルヴィンの寝顔を覗き込んだ。彼は静かに眠り込んでおり、腕枕も手慣れた様子だ。分厚い毛布もすべて僕に手渡し、小さな石でガタガタとした、苔の生した地面で寝息を立てている。
彼は、本当に人間を恨んではいないのだろうか?
ふと、猜疑心に満ちた疑問が脳裏をよぎる。僕は、苦しい記憶を思い出す度に、人間に対する吐き気を催す嫌悪が沸き立つ。では、彼はそれを完全に許しているのだろうか?命を無用に狩り取る事を、本当に正当化できるのだろうか?
「……貴方は、本当に、無用に命を狩り取る人間たちを、否定しないのですか……?」
僕の声は虚しく森の中にこだまする。森のざわめきが激しくなり、彼方から遠吠えが聞こえる。怒りを纏った咆哮は、遥かな山の頂に反響し、何度も、何度も響き渡る。こだまから逃れるために、木々のあちこちから鳥が飛び立っていく。
月光に照らされた狼の影は、遥か彼方にある。僕は諦めて、エルヴィンから離れ、瞼を閉じた。
それから一時間ほど経った頃、僕はやっと深い眠りにつくことが出来た。
「人間も動物ですよ……。エルド様」
微睡みに落ちる直前に、そんな囁きが背中から聞こえた。
目が覚めると、荷台の上で揺られていた僕は、無意識のうちにヤトを抱きかかえていたらしい。エルヴィンはこちらを振り向きもせず、挨拶をした。僕は反射的に会釈を返す。そして、ヤトを放してやり、御者台に近づいた。
日中をずっと荷台に揺られて過ごしていると、殆ど変化のない景色の中に、枝に巻き付いた蔦が増えてきた。僕は御者台にのぼり、エルヴィンの隣に座る。両手は御者台の板を掴み、楽な姿勢で足をぶらつかせながら、新しい景色を吟味する。
蔦は樹木を絞め殺そうと、ぐるぐるときつく締め付ける。樹皮にめり込んだ蔦が実に痛ましく、蔦は樹木の枝先からその体を地面に向けて垂らしている。その葉は赤茶色で枯れているようでもあるが、かさかさにしぼんだ樹木の葉脈を見れば、それが「寄生」の為にあまり必要でないものだったことがうかがえる。
「あの木、苦しそうですね……」
僕がポツリと呟くと、エルヴィンは静かに頷いた。
「えぇ。あの蔦は、自身の支柱としてだけでなく、養分としてあの樹木に食らいついているのでしょうね」
僕は垂れ下がる蔦を払う。その手を見ると、微かに蔦の形に赤くなっていた。馬車は頭上の蔦を押し退けながら、森の中で唯一馬車が通ることのできる、細長い谷間を駆け抜けていった。
ますます深まる森に対して、谷間には一つの集落が現れた。
僕は思わず目を擦り、その質素な集落が幻でないことを確かめた。
遠目にわかる程の寂れた棟の連なりは、はっきり言って凡そ人間の住めそうな雰囲気ではなかった。
茅葺の屋根には苔が生し、支柱に丸太を張っただけの壁には蔦が巻き付いていた。
「山間の村ですね……。休憩ついでに食料を分けてもらいに行きましょうか」
「僕がいても、大丈夫ですか……?」
僕がいることは、エストーラにいる限りは常に危険な事実になる。だからこそ、彼は人通りの少ない場所を通って国境を抜けようとしているのだ。
「えぇ、そうですね。村まで事実が伝わっていないとは限りません。しかし、その蓋然性はないことも事実。さぁ、行きましょう!」
エルヴィンは速度を上げる。僕はそれを止める事も出来ず、上着で顔を覆い隠す。エルヴィンはそれを認めると、僕の頭に頭巾を乗せた。
僕は頭巾を取り、顔を上げる。エルヴィンは操縦に注力しながら、含み笑いを見せた。
「自然に顔が隠れればいいのでしょう?フードや頭巾を使って輪郭を隠すだけでも、幾らか印象が変わりますよ」
僕は、再度頭巾を見た。彼は本気で村に泊まり込むつもりらしい。僕は諦めて、その頭巾を被る。ふと、狼が頭巾の少女を食い殺す伝承を思い出し、思わず苦笑いを零した。
集落は徐々に近づいてくる。僕はその場所が敬虔な聖言派の住む集落でないことを祈った。
蔦に包まれた家が近づいてくると、微かに心臓が高鳴るのを感じる。小さな集落の中には疎らに家が点在し、野良犬が柵の向こうで鼻を地面につけて歩いている。
そして、古い石造りの教会が視界に入ると、いよいよ緊張感が増す。近づくにつれて、村と外を分ける柵が非常に高く設けられていることが分かる。村の入り口からも、住みづらさが顕著に推察される。
ガタガタと振動する石ころの連なった道から、徐々に平らな道に変わっていく。道の端を見ると、小石がいくつか積み上げられており、思いのほか整備された道であることが分かる。その上、この小石が石塁のような役割を果たしているらしく、山からの様々な落石を防いだ跡が散見された。
「……やっと人肌の温もりを感じることが出来ますね!」
エルヴィンは肩をおろし、安堵の表情を浮かべる。村の人々が滅多に訪れない来客に驚き、身を起こす。
彼らの奇異の視線は、いずれも僕達というよりは荷馬車そのものに向けられており、僕は安堵の溜息を吐いた。
「あんたらぁ!迷子かぁ!?」
間延びした男の声が響く。エルヴィンは普段より少しだけ声を張った。
「そんなところです!お礼はさせていただきますので、一泊させてくれませんか!」
寂れた家からこれでもかという程の人が顔を出す。声をかけた男は腕を組み、少し唸った。
「ちょっと村長に問い合わせてみるから待っとれ!」
彼はものすごいスピードで村の中心へ向けて駆けていく。
井戸のある集会場や、ごく普通の民家から、村の女たちが顔を覗かせ、遊びまわる子供たちがその手を止めて不思議そうに僕達を見上げる。集落の全員分の食料となるであろう麦畑からは、泥まみれの服を着た男達が腰を上げる。その視線がすべて荷馬車に向けられているのだから、この村の繁栄の程度は推して知るべきと言える。
僕は古いゴシック調の教会に視線を送る。決して高くない鐘楼も、この村ではひときわ目立つ。くすんだ黒色をした石の質感などは、やはり村一番の壮麗さを持っていたが、ノイブルクの教会ばかりを見てしまっている僕にとっては、如何せん黴臭そうな気がした。
暫くすると、村人が戻ってくる。彼は何度も短く頷くと、手招きをする。僕とエルヴィンは顔を見合わせ、互いに村人の意図を確認すると、彼のもとへと馬車を走らせた。
「んでぇなぁ、食料なんかはおたくらに任せることになるんだけど、いいか?」
彼は馬車の停止に合わせて、独特のイントネーションで訊ねる。僕達は同時に頷いた。
それを確認すると、村人は「こっちだ」と言って振り返る。馬車は手綱の鞭打つ音を合図として、ゆっくりと動き始めた。
村の集会場と思しき広場の中心には小さな井戸が二つあり、それが却って物悲しさを演出するのに役立っている。痩せ細った犬が井戸の屋根の下でくつろぎ、小さく欠伸をしている。
さらに奥へと進んでいくと、広大な二毛作の畑が広がり始め、いよいよ町の外れに至ろうという所に行きついた。
通りすがりの狩猟小屋に目をやると、鞣したフォクトネックの毛皮が玄関先に吊るされていた。目玉も勿論なく、顔の輪郭も不確かなものとなっている。物言わぬ毛皮は魂を抜き取られた、くり抜かれた瞳の奥に簡素な宿を映し、僕達を諫めるように睨み付けている。
匂いに気付いたヤトが荷台の中で騒ぎ始める。僕は、荷台の中から彼を持ち上げてやり、優しく背中を撫でた。
「大丈夫だから、大丈夫だからね……」
フォクトネックの姿が見えなくなると、ヤトは落ち着きを取り戻す。一方で、取り残されたような彼の姿は、僕の脳裏に焼き付いて離れなくなってしまった。