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異世界動物記 ‐あるいは、もう出会えない君たちへ‐  作者: 民間人。
第六章 虹と大空を手に入れて
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虹と大空を手に入れて 22

 イェンス閣下はコーヒーハウスで購入したらしい伝書板を開き、頭を擡げながらしばし浮かない顔で考え込む。熟読の後、小さなため息を吐くと、入店のベルに振り返った。


「悪い、待たせた」


「え、林檎?」


「あー、これな。この辺の特産品だ。……って、林檎のパイじゃねぇか……。フゥ」


 ルプスはそう言うと、さり気なく耳元で囁く。


「合わせろ」


 それは、偶々ここに居合わせたという具合にしろ、と言う意味で間違いなかった。事実、イェンスは焦って荷物を纏めようとしたが、ルプスがこちらに一切目を合わせず、また気だるげに座る様子を見て再び席に着き、音を立てないようにそっと荷物を纏める事に専念し始めた。私は努めて普段通りに林檎のパイを頬張りながら、だらしなく口に物を含んで話を続けた。


「じゃあ林檎頂戴。コーヒーあげるから」


「茶うけ二つじゃねーか」


 ルプスはそう言いつつ林檎を私の方に放った。私はそれを受け取り、コーヒーを静かに机の上で滑らせる。コーヒーは一瞬荒い波を立てたが、直ぐに落ち着きを取り戻し、波紋だけを残す。


「あいつが立ったら気づいたふりしていいからな」


 荒い息遣いになるイェンスの姿を横目で見ながら、ルプスはコーヒーを受け取り際に小声で囁く。私は目配せで回答し、アップルパイを食べる。

 コーヒーを一口飲んだルプスは、深い溜息と共に、透明な息を吐いた。


 コーヒーが運び込まれると、イェンスはそれを一気に飲み干し、お代を机に投げ捨てて立ち上がる。明らかに足元が震えている彼が気の毒に思えたが、私は気付いたというしぐさのために顔を上げた。


「どこに行くつもりだ?イェンス閣下」


 イェンスは飛び上がる。彼が一気に切り抜けようとしないのは、足の震えの為だったかもしれない。彼は硬直したまま此方を向き、青ざめた顔に引き攣った笑みを浮かべた。


「まぁ、座れよ。話を聞いてやるよ」


 ルプスはコーヒーを持ち上げながら言う。イェンスは周囲をきょろきょろと見回し、私と一切目を合わせようとしないまま、「コーヒー、おかわりで……」と呟いた。


 高い天井の上で薄く積もった雪が鳴動する。降り出した雨のためか、薄っすらとあった雪化粧もすっかり落ちてしまっていた。


「で、お前的にはどうしたいんだ?」


 ルプスは腰に結わえた何かを掴みながら尋ねる。顔面蒼白のイェンスは、既にその仕草の意味を理解しているらしかった。首を持ち上げ、震える瞳でルプスを見下ろす。荒い息遣いの度に、盛り上がった腹に机が当たって揺すられ、ソーサーがカチャカチャと震えている。


「私は、エルド様の下に逃げてきたのだ。それは、本心だ……」


「……じゃあ、お前はこいつとは無関係なのか?」


 ルプスはそう言って、盗聴器を持ち上げる。擦れた法陣を見た時に、イェンスは一気に瞳孔を小さくする。ルプスの目が鋭く光った。


「そうだよなぁ?プロアニア製の法陣じゃねぇことは一目でピンときた。エルド以外にはバレてると思え」


「……いかにも、それを仕掛けたのは私だが、それは私がここに来た口実に過ぎない」


 イェンスは背もたれに身を任せて答えた。ルプスが眉を持ち上げると、彼は苦しそうに咳払いをする。


「信じてくれ、それは真実だ。私達は簡単には、シーグルス陛下から逃れられはしない……」


 ルプスは批難でもするように机に強く肘をつく。イェンスはびくつき、顔を逸らす。客人たちのただならぬ様子に気付いた店員が、こちらをちらちらと見ている。


「詳しく聞こうか。その上であんたを値踏みする」



「シーグルス帝はあの国をさらに広げる為ならば犠牲を伴わない傑物だ。使うだけ使い、役に立たなくなった家臣は処刑し、財産を没収する。その金で大衆を飼いならしながら、帝国の伝統を踏み躙っていった。もはやあそこは神の守護者ではない!わかるであろう!アイデンティティを踏み潰していった奴めの残忍極まりない様……!あれがプロアニアを手に入れて見ろ、次はノースタットの民衆が狩り尽くされるに違いない!」


 イェンスは衝動的に声を荒げる。憎しみと恐怖に、唇がぶるぶると震えている。ルプスは冷めた目つきでそれを見ながら、運ばれてくるコーヒーを無言で受け取る。イェンスはそれに構う事もせずに、歯を剥き出し、真っ赤な白目の中に小さな瞳を泳がせる。机が震えるほどの力を込めてその体重が支えられる。ミシミシと軋み、ぎりぎりと歯が鳴り、カチャカチャとカップが揺れる。

 ルプスは片肘をつきなおし、顎を手の甲に乗せる。


「っつーと、あれか?あんたは民衆を切り捨ててここまで来たって事か?」


「なんだ?私が悪いのか?吊るされるまで抵抗しろと言うのか?馬鹿を言え!武官と文官では天地ほどあり方に差があるわ!私は、民を管理こそすれ蹂躙をせず、それは宮廷でも同じこと!第一、エル……」


 ここで言葉を止めたのは、本来のイェンスが非常に理性的な人物であることの証左だった。エルドの事を引き合いに出せば、この交渉は不利に働く、彼は溢れる怒りと恐怖の感情の中でもそれを判断し、直ぐに押し留まったのだった。

 カチャン、ルプスの回収したカップが机の上に置かれる。イェンスは急にしおらしくなり、切れた息を整えながら席に着きなおした。


「あぁ、分かってはいるとも。私は傲慢で臆病な人間だ。レーオポルト陛下が皇帝になった折には学芸に秀でた人々を称賛し、シーグルス帝の下ではレーオポルト陛下が目指した信仰の光を簡単に踏み躙る事が出来た。……そうとも、醜い私では信用に足りないというならばそれでもいい。しかし、その後の悍ましい記憶を思えば、私が容易にエルド様を裏切る事はない事も又事実であろう」


 エルドの名を迂闊に出しかけた事で平静を取り戻したイェンスは、貴族らしい流暢な言葉遣いで言った。こちらに来てからはすっかり聞かなくなった母国語の、しかも尊大な貴族の言葉に懐かしさを覚えた。イェンスは私の方をあまり見ないように意識しながら、ルプスに回答を促す。ルプスは鼻で嗤い、イェンスを指さした。


「そういう所も信用ならないんだぜ、俺にはな」


「君に信用されずとも結構。私が用事があるのは君の主人だからね」


 彼は冷めたコーヒーを流し込むと、服を整えて立ち上がった。

 そのポケットから自然と大金を取り出すと、店主に一言称賛の言葉を述べてその場を後にする。私はルプスを見たが、彼はイェンスを追いかける気がないようだった。


「……お零れに与ろうぜ、サクレ。これならもう一杯飲んでも釣りが出る」


 ルプスは不敵に笑う。私が躊躇って首を振ろうとすると、ルプスは勝手にお代わりを注文し始めた。


「全く、今日は収穫の多い一日だったよな?」


 そう言ったルプスは、煙草を咥える。ライターと言う火打石のようなもので、彼は煙草に火を灯した。すでに今日、四度目の鼻につくにおいだった。


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