虹と大空を手に入れて 19
女性の化粧と言うものを間近で見るのは初めてだった。幼い頃には首都の近郊で乳母に育てられるので母からは離れていたうえ、物心ついたときには母も僕も異なる暮らしに慣れてしまうので、余り沢山甘えられるものでもない。乳母が相談相手になってくれることもあったが、そもそも乳母は人前で化粧無しで出歩くようなことはしない。
そのため、化粧入れの中の独特のにおいが漂う自室と言うものには何となく慣れない。僕はそわそわしながら空を飛ぶハギウチの群れを模写し、フランは実に楽しそうに少女の髪を梳く。
「……少し枝毛が目立つから切ってしまいましょう」
そう言うとフランは鋏を取り出し、髪の先端を丁寧に切り始めた。下に敷かれた汚れ受け用の麻布に、髪の毛がぱらぱらと散っていく。少女は鼻歌交じりに足をふらふらとさせ、とても機嫌が良さそうだ。
「そういえば、貴方の事、何て呼びましょうね」
「私の事は、皆さんがオイと呼びます」
暫くの沈黙。鋏が髪を切る音だけが静かに響き渡る。
僕はつい筆を止め、彼女の名前について考えた。奴隷ではなく、一人の人間としての名前……。番号や、おい、と呼ぶ声を名前と認識しないような、そんな名前……。
「そう、オイちゃんね。エルドと、フランよ。」
「オイちゃんって……。待ってよ、フラン」
僕はフランを制止する。あまりにもてきとう過ぎる名前だ。フランは僕の方に向き直る事も無く、間の抜けた声でなに、とだけ聞き返した。
「なに、じゃなくてさ。もう少し、いい名前がいいんじゃないかなって」
「名前なんて所詮固有名詞よ。個人が特定できればそれでいいわ」
「いや、でも……」
僕は言葉を濁す。名前に意味を持たせるというのはエストーラでは当たり前であり、恐らく西方世界では当然行われている事である。
例えば、町の主宰神の名前や、軍人の名前や、偉大な祖先の名前を借りる事もある。とにかく、名前には願いが込められているのが普通であって、単なる固有名詞として名前を付ける事には少なからず憤りを覚える。
しかし、彼女に対して、そうした感情的な意見をぶつけても、軽くあしらわれてしまうだろうことは、何となく理解できた。
「でも、例えば、『オイ』だと、誰を呼んだのか分からないよ。二人振り向いちゃうと、結構面倒だと思う」
僕は出来る限り建設的な意見を述べる。すると、フランは顔を持ち上げ「……それもそうね」と呟く。暫く天井に目を泳がせた彼女は、「いい名前」を考えると、彼女の顔を覗き込んだ。
「ハンス・マイヤーにしましょう」
「……ちょっと変だよ」
「ありふれた名前が嫌なのね。だったら、そうね。ジェーン・ダウなんてどうかしら?」
「……ふざけてる?」
要するに、彼女は身元不明、と言いたいのだろう。僕は沸々と怒りさえ湧き上がってくるのを感じた。名前に願いをかけたとしても、それは恐らく無意味なものなのだろうけれど、それでも、付けることには意味がある、そう思わずにはいられないのだ。
「真剣よ。彼女にとっての一番の幸せは、奴隷として生きる事でも、最高の地位を得る事でもない。ありふれた幸せが一番重要なの。それは多分、貴方や私に足りない物だったのよ」
ハギウチが飛び立つ。渡りをするハギウチは確かに日々楽園を目指して旅をするが、それは、地に足を付けられないという悲しみの裏返しなのかもしれない。落穂拾いの映像が突然シャットアウトされてしまった。僕が答えに戸惑っていると、フランは化粧水で少女の顔を拭いながら続けた。
「こうして旅をして、窮屈な宮廷生活に慣れた体が如何に脆弱か分かったけれど……。毎日を余裕なく過ごす人々を見てきた私からの願いは、たった一つよ。彼女を『可哀そうな奴隷』として扱わない事。貴方だって同じ願いを持っているから、こうして名前を考えてくれているのでしょう?……でも。だったら、それでいいじゃない。偉大な神様の名前を借りたって、私は神様になれないのだし」
彼女は慈しむように拭った顔を指でなぞり「綺麗になった」としみじみと呟いた。
「僕の……僕の名前は……。『ささやかな』と言う意味から付けられたんだって」
父さんの言葉を聞いたとき、少しショックだったのを覚えている。小さな、とか、ささやかな、とかを意味する単語から、「エルド」と言う名が付けたのだと告げられ、僕はちっぽけな存在なんだろうか、と本気で思い悩んだことがある。レーオポルト帝の名は偉大な軍人の名を借りたものであっただけに、告げられた時は幼いながらにショックだった。
しかし、父さんは、その治世では内紛や異教徒との血なまぐさい戦いに追い立てられていたが、学問と芸術を愛し、争いを嫌う人物だ。言葉には必ず意味を求める。「ささやかな」と言う言葉には、穏やかで、野心家でなく、兄弟と争う事のしない人物となる事を願ったのだという。父さんが進みたかった聖職者としての道を目指し、「ささやかな祈りと幸福の中に生きて欲しい」と、そう願ったのだという。それを語っている時の父さんは何処か誇らしげで、僕の事をその厳つい手で撫でてくれたのを覚えている。芸術を愉しむ繊細な指を失い、インクの跡が残る、とても暖かい手だった。
「いい名前ね」
「ジェーン、いい名前だと思う」
僕はささやかな幸福に与ることが出来なかったのと同時に、父を図らずしも失望させてしまったことに、今更ながら胸が痛んだ。
「君はジェーン。ジェーンと言う名前にします」
「名前、有難うございます。大事に、します」
肌を保護するドーランや、ほんのりと自然にあかみがかるように塗られた紅、結わえたポニーテール。ジェーンはは見違えるほど健康的になった。
フランは満足げに息を吐く。
「あとは、服装ね。あまりお高くとまったものではちょっとバランスが悪いから……商店街で仕立ててあげましょう。でもしばらくはサクレの服を借りましょう。」
フランはジェーンに鏡を見せる。ジェーンはそれを不思議そうにのぞき込むと、驚きの余り表情を硬直させた。暫くそのままでいる彼女の頬を、一筋の涙が伝う。フランは柔和な笑みを浮かべた。
「あら、お化粧が崩れちゃうわ。それとも、嫌だった?」
「……身、に。身に、余る……」
「そんな事ないわ。貴方は……とても素敵な人よ」
フランは静かに抱き寄せる。ジェーンは滝のように涙を流した。鏡に映った自分の、化粧が崩れた顔と向き合いながら、それでもなお、ジェーンは歓喜の涙を流し続ける。
例え奴隷として大切にされていたとしても、彼女には、この一さじのドーランが、自分に足りない全てなのだと思えたのかもしれない。
「手直ししてあげるから……そのまま一人で遊びに行ってらっしゃい?」
「身に、余る……幸福です」
ジェーンがそう切り返そうとすると、フランは静かに人差し指を立てて口を噤ませた。ジェーンの鼻水を啜る音が響く中、フランは少しだけふっくらとした彼女の髪を撫でる。穏やかな昼下がりの空に、教会の鐘が響き渡った。




