虹と大空を手に入れて 9
真昼の太陽が直上を照らす中、奴隷商人達は新たな商材を引き連れて壇上に上がった。すり減ったガベルが鳴らされ、教会の鐘が天上の光を揺るがすと、奴隷商人達と利用者は我先にと奴隷達の値踏みを始める。入札方式は一般競争入札、支払いは落札者と第二位の入札者だ。彼らはペンと手形と小切手を手に握りしめ、希望の番号が呼ばれるのを待つ。
劇場のような市場の上には、如何にも屈強な青少年たち、力自慢の亜人達、小柄で真面目そうなコボルト奴隷、そして唇の青い少女だ。
兎に角彼らには時間が惜しい。次々に人気の奴隷が売れていく中、青い少女は後半の亜人奴隷達に混ざった、最も高いコボルト奴隷の手前で待機していた。人気のコボルト奴隷まで絶対に帰らない顧客への信頼が伝わってくる、強気の構成だ。彼らは間違いなく、狩人の目で顧客を鋭く捉えている。
番号、価格、価格、価格、落札の掛け声が高らかに繰り返される。目移りする企業家など、ここにはいない。誰もが虎視眈々とその時を待ち、動向を窺っている。周囲の挙げた価格が予算を上回るとわかれば、直ぐに手を下げる。ここはまさしく戦場だった。
「続いては14番、始値は200金リーブル」
「200金リーブル……」
思わず迷いが生じた。エストーラの一般的な労働者の月収が大体240金リーブルだ。この程度の価格で取引される命とは、いったい何なのだろう。僕は先を急ぐ人々の待ちの姿勢を気にしながらも、恐る恐る手を挙げた。
「210……」
市場を静寂が支配する。奴隷商人は呆気に取られてガベルを持つ手を緩める。呆けた表情は正しく、信じられないという様子だった。
彼は我に返ると、「210、210!」と大きな声を上げる。他に手は挙がらなかった。
間も無く、ガベルが打ち鳴らされる。市場に立つ誰もが安堵の表情を浮かべる。役に立たない奴隷を処分してくれる心優しい世間知らずがいたものだと、誰もが感じた事だろう。
「続いては15番、お待たせしました、コボルト奴隷です。始値は500金リーブル」
市場は無情に通り過ぎる。静寂の後には、果てのない欲望の怒号が溢れる。
僕は心底安堵したが、同時に物悲しくもなる。奴隷一人を買い取るのにこの価格だ。そもそも、奴隷とは企業が買い取る事が多いもので、その想定で値段が付けられているのだろう。予算オーバーも甚だしいが、フランの年金で何とか返していくしかないかもしれない。僕は今後、彼女に頭が上がらないだろう。
僕はゆっくりと手をおろす。その手を取る誰かがいた。僕はその手を握り返す。肌理の細かい肌と、白く澄んだシルクの肌触り。ベラドンナの香、或いは、アイリスの香。僕は隣の人に視線を送った。彼女は黙って微笑んでくれている。僕はもう一度、彼女に声をかけた。
市場の喧騒は益々激しさを増す。コボルト奴隷達の競りは彼女の何倍、何十倍、何百倍にも膨れ上がる事もあった。僕は黙ってその様を見届ける。醜い雑踏の中の一人として、烏合の衆の一員として、反吐が出るような妄執の渦の中から劇場を仰ぐ。それは高く、広く、劇場の上に垂れ下がる。幕が下ろされるまでに、数時間を擁した。
教会の鐘が鳴るまでに、コボルト奴隷は全て売れてしまった。
夕方の高らかな鐘の音が、町中に響き渡る。エストーラのそれよりも低くくぐもった鐘の音は、重量感を持っていた。
落札した奴隷達はそれぞれの購入者に割り当てられる。各々が健康診断と保証書を確認しながら、若い男の体をまじまじと見つめ、時に胸に触れ、耳に手を当てる。彼らは奴隷を引き連れて馬車に藁を敷き詰めた暖かい屋根付きの荷台に乗り、彼らに温かい白湯を渡す。それが契約の第一段階なのだろう。奴隷の顔に色が戻る姿を見た後で、その馬車が行き去っていく。
「14番の方、お待たせいたしました!」
僕は商会の前に進み、まだ順番を待つ企業家達に背を向ける。僕達の身なりを認めてあらぬ方向に何かを察した奴隷商人は、契約書にサインを迫る。僕はサインをし、フランから小切手を受け取った。それを商会の主人に交付し、契約は成立した。奴隷商は清々しい表情でそれを受け取り、代わりに保証書付きの奴隷認可証を僕に手渡す。僕はそれを受け取り、暫く黙って見つめる。
奴隷に名前は付けられていない。故郷と、入札番号と、その他の健康状態が記されているだけだ。いずれも、「至って健康」とのことだ。奴隷商人は手錠を付けた少女を僕の前に鍵と共に差し出す。僕は少女を見る。かじかんで震えた手、痛ましいほど青白い肌、冷え切って青ざめた唇……。伸び放題の髪はぼさぼさで、枝毛があちこちに伸びている。薄着なのは売られた後の身体検査の為だろう。この財産は余りにも儚げだった。
僕は彼女の手錠を外す。奴隷商人は驚き、僕を見た。僕は手錠を彼の胸に押し付けると、奴隷認定書と保証書とを破り捨てる。呆けた奴隷商人は、小柄な基地外の行動に思わず唇を震わせる。
「有難うございました」
僕は奴隷商人にそれだけ告げ、足早に立ち去る。少女は驚きに目を丸くして立ち止まっていたが、フランに手を握られて我に返る。
「行きましょう」
少女は彼女に導かれるままに、市場を後にした。喧噪を終えた奴隷商館の前には、破り捨てられた奴隷の証と、突き返された手錠が胸の中にあるだけだった。




