ビロードの毛皮を求めて 26
いつの間にか、教会の外は凍える吹雪に晒されていた。退出と共に凍り付く睫毛に、真っ白な雪が積もる。降り注ぐ氷雪の痛みに身を縮こませて歩き出すと、以前出会った少年が僕の前に立つ。
「ご機嫌麗しく、エルド様」
「君は……ビフロンス君、だったかな」
凍てつく外気が却って記憶を鮮明にさせる。真っ白な髪を吹雪に靡かせ、少年は静かに首を傾げる。世界に突然浮かび上がったような儚げな笑みと、はっきりとした存在感に眩暈が起こる。不思議な事に、世界に浮かび上がった少年は吹雪に遮られることもなく、また、凍てつく町に睫毛を凍らせる事も無く、涼しい顔で佇んているのだ。
「この吹雪は生身には厳しいでしょう。ほら、先程まで元気に反教会を叫んでいた人々も、各々の店で凍えていますよ。一先ず僕の家へご案内します。どうぞ」
彼はそう言って中央通りを指さす。吹雪に阻まれた視界では、目の前の大公像すら見ることが出来ない。僕は雪を払い、ただ一つはっきりと浮かび上がったビフロンスの後に続いた。
凍てつく町は時が止まったように閑散としていた。足を止めればそのまま息絶えてしまいそうなほどの冷たい空気を、肺が拒んでいるのが分かる。温められた体が一気に冷え切ってしまった僕は、身を縮こませ、永遠のように長い一分の後に、公証人館に辿り着いた。
「さぁ、どうぞ」
彼が扉を開けると、冷気に慣れた肉体が驚くほどの暖気に身を竦ませる。もわり、とした煙のような空気が白銀と混ざり合い、背と腹がその温度の違いに困惑していた。僕が一歩踏み込むと、最早冷気は背の向こう側に消え、穏やかな春の日のような空気が充満していた。
「少し散らかっていて申し訳ありません」
導かれた部屋は確かに散らかっていた。しかしどちらかと言えばそれは仕事中に突然来客が来たような、作業を途中で打ち切った時のような散らかり具合で、普段は恐らく本も本棚にしっかり整頓されているだろうと考えられる。そう言う程度には管理が行き届いた部屋で、不快感は特に感じなかった。
強いて言えば、部屋に充満する古書のにおいに不快感を覚える人は一定数いるだろう、といえる。部屋中彼方此方に、いつ書かれた本なのか分からないものが大量に並べられている。
彼は椅子の上に置かれた本をどかし、殆ど被っていないが埃を払うと、「どうぞ、お掛けください」と静かに案内する。僕は言われるがまま席に着き、彼と向かい合った。
客人用の椅子なのか、革製のソファはふかふかと心地よく、本が置かれていたためか多少温もりも感じた。彼は席に着くと、早速書類を整理し始め、それ等を僕のもとに差し出した。
書類は全部で四種類、それぞれ全く同じ内容の物が並べられている。彼はそれらを僕の前に滑らせると、「お手数ですが、ご確認の上記載ください」と言って微笑んだ。
僕はそのうちの一つを手に取り、インク壺を出して筆に浸した。
インクをつける間に、用紙の内容を確認する。タイトルには、『「絶滅動物の権利の特例に関する法律」に基づく、異世界転生者の活動と現状に関する調査』と書かれ、非常に丁寧な文体で、人類史上絶滅したとされる絶滅動物の内で、特に顕著な例の個体が転生の対象となっていた事、然るべき事実を知った者について、その生活状況などを調査して保障を充実させる事を目的とすることなどの説明が長々と書かれていた。僕がそれを見る様に、ビフロンスは少し安堵しているようだ。僕が顔を上げると、彼は恥ずかしそうに笑う。
「実のところ、余り読まれない方が多くて、困っているのですよ。大事な調査ですので、質問をして下さるのは有り難いのですが……」
「初めに説明も無しだったから、仕方ないと思うよ」
「申し訳ございません。通常の人間の場合と異なり、ご自身の状況を理解した方にのみ、調査を行っているので。説明をしてしまいますと、法律の目的に反する場合が出てきてしまいますので、ご理解頂ければ幸いです」
彼はそう言いつつ、僕が読んだ部分について補足的な説明を始める。恐らく馴れているのだろう、かなりわかりやすくアンケートの記載方法を説明し始めた。
「……これ、後では駄目なんですか?」
「参加・不参加は自由ですが、貴方が今とるべき行動のためには、後回しにしない方がよろしいかと」
ビフロンスはそう言うと、書類の末尾に記された特典の項目を指さした。曰く、参加した暁には、権利を逸脱しない範囲内での悪魔の協力が保障されるという。悪魔、と言う単語を見て、僕はビフロンスを見る。
穏やかで、折り目正しい執事のような少年が、悪魔だというのか。俄かに信じがたい事実だったが、彼は僕の目の前で、その力を示して見せた。
突然空間を歪ませ、その中に手を突っ込んだ彼は、書籍を引き出す。どうやら僕と同じような人々の事を纏めた書類のようだが、彼はその中から、ヤーキムに関する報告の頁を開いた。
そこには、彼のかつての学名や生態と共に、現状について記されていた。先日処刑の決定が示されたことまで、かなり新しい情報が記されているらしい。僕はそれを引き寄せる。ビフロンスはそれを閉じ、アンケートを指さした。
僕は唾を飲み込む。彼の言うとおりに、調査に協力する事に決めた。
「僕の手元には、全ての転生者の情報があります。そしてもう一つ、僕はこの町の年代記を長らく書き続けております。それこそムスコール大公国建国以来より。その目的はもっぱらスパイのようなものですが、貴方の望むものがここには確実にあるでしょう。例えば、貴方の素性を知る、さる高貴な方の召使の事など」
僕が書類を記載する間に、彼は少しずつ、僕が求めていそうなものについて挙げていく。イワーノス家の野心について、ローマン家の停滞について、そして、全国民の関心が何処に向けられているのかについて。僕がペンを滑らせる毎に、徐々に明らかになるのは、僕の調べた情報と食い違う事なく、また、この国におけるパフォーマンスの重要性を明確にするために役立った。そして、最後にサインを書き終えると、彼は僕にねぎらいの言葉をかけ、それを回収した。
「最後に一つ、情報を。この国の教会の現状についてです」
彼は身を屈ませ、僕にだけ聞こえるような小さな声で話し始めた。
「教会はヤーキム卿の処刑に、死亡確認の為、魂の救済の為に同席します。つまり、貴方の判断はかなり正しい。彼らの友人であれば、貴方は処刑台に昇る事も容易いでしょう。後は、貴方の善意に任せればよいと思います。急進派のような例外を除けば、町の人々は不満の為に外の人を傷付けるような蛮族ではありません。ムスコールブルクの市民は何よりも、共存と繁栄を望んでいます。あとは根回しですかね。これについては、僕も協力しましょう」
「有難うございます。でも、いいのですか?」
「勿論。我々悪魔と致しましても、こちらが送った魂が報われない最期を迎える事は望んでおりませんので」
彼は書類を回収しながら言う。一通り机が片付くと、彼は旅の人数分の書類を纏めて僕に渡し、その上に錆びついた鍵を置いた。僕が彼を見ると、彼は柔和な笑みで返した。
「餞別です。地下牢の鍵、とでも言っておきましょうか」
僕はそれを書類と共にしまう。握手を交わし、公証人館を後にする。古書のにおいは吹雪く街に漂う冬の香りよりずっと優しく、僕の背中を押す。それよりもずっと僕の背を押したのは、部屋に染みついたインクが僕の絵画と同じ匂いだったからだろう。過去と、今の僕の生き方を肯定されているようで、背筋が伸びる。相変わらず窓の向こうの空は真っ白に覆われていた。




