ビロードの毛皮を求めて 22
一つ、霧立ちこめるゲンテンブルクの煤の臭い。一つ、糞尿空より降り注ぐ、カペルはペアリスの繁華街の臭い。一つ、烏舞い踊る低い空、死臭塗れのノースタットの臭い。一つ、美醜分別無き白銀、ムスコールブルクに降り注ぐ、凍てつく氷雪に沈む流血の臭い。この世の耐え難き異臭を表す箴言だ。ムスコール大公国にはまたしても大地に伏して血を流す、耐え難き臭いが齎されてしまった。
ヤーキムは空を仰ぎ、彼方に浮かぶ月を思った。未来博士がここに在れば、或いは彼は救われるだろうか。ロットバルト卿の弟、ローマン・ルシウス・イワーノヴィチは、教会での処刑の折、見事な逆転劇を見せ、自分の命もろとも教会を救って見せた。
執務室は極上の牢獄となり果て、彼に首を垂れる者も最早ない。音を立てないヴァイオリンや、フルートや、ハープはただそこにあるだけで主人を慰めたが、それ以上に語らう事をしなかった。
弁明の機会などなく、議会は彼を解任する事に決めた。後に国民の投票があれば、次には処刑もあり得るだろう。宰相が解任されることは、大臣を含めた内閣、皇帝の膝元にある人々も、一旦リセットされることを意味する。彼らが求めていたのは彼への忠義や信用などではなく、ただ、彼の傘下にある大臣と言う地位だけだったのだ。その為に地位を守られていた彼が、真っ先に思い至った箴言が耐え難い物を示すものであったと知れば、、国民は彼に容赦なく死刑を言い渡すだろう。失策の責任を負うのは、他ならぬ権力者自身であったという事だ。
「ヤーキム卿!」
何か言伝か、そう思ったヤーキムは扉を開ける。面会に現れたのは最近ゲンテンブルクから現れた、エルドという特使だった。
「これは、これは。私に何か用ですか?」
エルドはヤーキムのもとに駆け寄り、彼の肩を揺すった。ヤーキムは氷雪に埋もれた血の臭いを感じた。
「貴方が罪を背負えば、この国はオデールのものとなってしまいます。どうか、お気を確かに!」
エルドは何かに追い詰められたように、必死の形相で彼の肩を揺する。その時、ヤーキムが思い起こしたのは、家臣たちが憔悴しきった中で反対の意思を告げた御前会議だ。大公はただそれを眺めるだけだった。そして、大臣たちは自分の地位が危うくなるのを防ぐためだけに、ヤーキムを守るだけだった。揺れ動く脳波が、彼の心を益々弱らせる。
「それもまたいいでしょう。元よりこの国はイワーノス家と大公陛下の物だ。こちらがまがい物だったに過ぎません」
「お気を確かに、ヤーキム卿。仮にオデールが宰相になれば、国家が良くなるなどと考えないでください。今でさえ、ムスコールブルクは大福祉国家の枷に縛られているのです」
エルドは上目遣いにヤーキムを見る。膝を床につき、ヤーキムの服の裾を掴む彼は、何故か瞳を潤ませていた。
「確かに、この国はもう百年も前から、滅びる命運を背負っていたのかもしれません。私達にあるのは毛皮と、雪の要塞と、民衆という枷なのですから」
「これは最早革命ではありません。単なる政争だ。大福祉国家の枷に縛られた貴方がこれを止めるには、貴方自身の真実の研鑽と貢献を示す事しかありません。そして、知性を蓄えたムスコールブルクの民衆達であれば、必ずや、それを理解して下さるでしょう」
エルドは何かに憑りつかれたように、強く、激しくヤーキムを揺する。このまま絶対に引き下がる意思はないと、潤んだ瞳がそう示していた。
目の周りが赤く腫れている。ヤーキムはエルドの腫れた涙袋を、いたずらになぞって見せた。
彼は、ゲンテンブルクで何かを背負わされたのだ。ヤーキムは、エルドの余りの必死さに、それを感じ取った。そして、それはヤーキム自身を慮る気持ちでは決してない事をも、感じ取った。
「ムスコールブルクの空のにおいを感じた時の事を、よく覚えています」
「……え?」
ヤーキムはエルドを気にかけることなく、視線を外に向けながら、独白を始めた。
「凍てつく町のあちこちに、毛皮のコートを着た人々がありました。空のにおいはそのためか、何処か私の故郷を思わせるものでした。そして、この町の、何もかもを、受け入れる事に決めたのです」
ヤーキムは目を細める。エルドは口を半分開け、ヤーキムの言葉を待った。ヤーキム自身、この独白には意味がないことは分かっていた。何故なら、それが彼自身の経験、とりわけこの世に生を受ける前の経験に起因しているからだった。
「人々の営みを知らぬ頃の事をよく覚えています。私達は彼らの事をちっとも知らなかった。彼らがこれ程美しく、私達を残し続けていたことを。その魂のあちこちに、私達を残そうとしたことを。私はそれを、嬉しく思ったのでした」
ヤーキムはゆっくりと目を閉ざす。空のにおいを楽しむように、彼は深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。
エルドは突然ペンとインク、紙を取り出す。ヤーキムは静かな部屋いっぱいに広がる、剥製の生のにおいを楽しみ、息を吐き出した。
「貴方の事を聞かせて下さい。貴方がずっと昔、どんな姿で生きていたのかを」
エルドは真剣な眼差しをヤーキムに向けた。ヤーキムは、少し困ったように笑い、恥ずかしいですが、そう一言断って、再び毛皮のにおいを吸い込んだ。




