ビロードの毛皮を求めて 18
真っ白な雪の結晶が空を舞う。しんしんと降る雪を被った庭木は原型を保たず、単なる盛り上がった雪に過ぎない。宮殿の赤と二重の窓、二重扉も半ば埋もれている。今夜の積雪はとても深い。
空を見上げれば、曇天の隙間に月が顔を出していた。重なり過ぎ去っていく雨雲は月を覆い隠し、時折その陰影をぼやけさせながら、瞬きだけを届ける。透き通った黒い雲は生き急ぎながら、残ったその身を地上に分け与える。
空の白、大地の白と混ざり合った中を、カンテラの明かりを頼りに、足元を取られないよう慎重に進むこと十数分。近衛兵の兵舎が現れる。ファーや毛皮に塗れた武装兵は新式の銃を担ぎ、背筋を伸ばして立っている。僕に気付いた一人が訝し気に銃口を向けたので、僕は立ち止り、紋章付きの通行証を手にもって両手を挙げた。
近づいてくる兵士がそれを見ると、武器を引っ込め、頭を下げる。僕もそれに応じて頭を下げると、彼は僕の頭に雪除けの帽子を被せ、慣れた足さばきで雪道を駆けて行った。
僕が兵舎の入り口まで進むと、もう一人の守衛が、ポケットから火を点ける機械を取り出す。手のひらサイズで持ちやすく、カチり、と何度かボタンを押せば炎が灯る。彼はそれを煙草に近づける。煙草も紙に巻かれた棒状のもので、僕がたまに見たキセル式のものではなかった。
一服の後、僕の視線に気づいたのか、彼は苦笑いを浮かべる。浅黒い煙が立ち上る。
「おタバコは苦手ですか?」
「いえ。祖国ではキセルを、プロアニアでは葉巻を見ましたが、紙煙草は余り見なかったので」
正直煙草の臭いはあまり好きではないが、本人を前にして嫌いと言うのも気が引ける。
「こいつはまずい。しかし辞められないんですわ」
彼はそう言って煙草を吸う。降りしきる雪に濡れないように器用に体で煙草を守りながら、上を向いて息を吐く。息は薄暗い煙となって空を舞い、雪と同化して消えて行く。
「お待たせしました、エルド様。どうぞ」
中へと入っていた兵士が現れ、一服する兵士を一瞥する。閉ざされた扉を開けた先では、意外にも広いエントランスに、ルプスが寛いでいた。
「よっ。ちょっと不機嫌か?」
彼は手を挙げて挨拶をした。僕の顔を見るなり、機嫌が悪い事を見抜かれてやや動揺しながら、案内された席に着く。
外よりはいくらか暖かい室内だが、宮殿のように暖房設備が完備されているわけではなく、足元はやや冷える。冷え切った床の冷気が靴を伝わり、足先だけが妙に冷たい。
「俺からの報告を聞きに来たんだろう?」
「はい、お願いします」
ルプスは柔らかいソファにもたれ掛かりながら、深い息を吐き出す。
「まぁ、あれだな。結論から言うと、あいつらは貴族に敵対心を持っているし、政府にも不満がある。だが主張はてんでばらばらだな。団結力がねぇ、好き勝手言いやがる」
「そんな気はしたよ……。こっちも民衆にへりくだるのが嫌な様子だったよ」
「これはなぁ、上から無理矢理抑えつけるしかねぇぞ、多分」
彼は心底呆れたという風に言った。
「制度の方はどうだった?」
「それもまちまちだな。結局は金だ、とか、それなら私達にも政治に入り込めるとか、色々だ。市政で手一杯、なんてのもいたな。あとはもう一つ」
ルプスは指を立てる。僕は何故か緊張して、背筋を伸ばした。
「教会を教育機関にしているのが我慢ならない連中はかなりいたな」
「うぅん、そうかぁ……」
案の定と言えば案の定だ。教育のための資金として受け取っているのが、政府との癒着と取れないでもない。しかし、ルプスは続けて意外なことを言った。
「そもそも貧民が教育を受ける余裕なんかねぇよなぁ」
「……え?っと、つまり、そもそも教育機関として機能していないの?」
「あぁ?そりゃそうだろ。農民の子は手伝いだし、職人の子は弟子入りだ。要らねぇことやれるほど暇じゃねぇんだよ」
ルプスは呆れたように答える。頭を撃たれたような衝撃が走る。
僕は冷静に状況を整理する。確かに彼らは労働しているが、その合間に勉強をしているものだと勝手に考えていた。そうでないなら政策自体機能していないのか。
僕が黙っていると、ルプスは前屈みになり、僕の顔を覗き込んだ。
「大人しく公示人でも使ってればいいんじゃねぇかな」
僕は黙り込んでしまう。純粋にショックだった。大福祉国家を銘打ったムスコール大公国の教育制度自体が無駄だったというのは、寧ろ外の人間としてのショックが大きい。ルプスは判りきったことに衝撃を受けた様を見て失笑していた。
「でも、この政策はきっと将来必要になるよ……」
自分に言い聞かせる。いつかきっと、文字を読めることが必要になる時が来るはずだ。例えばプロアニアのように、識字率が高いからこそ機能するマスメディアが現れる事もあるだろう。
「そうか?普通に生きる分には、文字がなくて困ることは無いぞ?あぁ、数字ぐらいは覚えた方がいいけどな」
ルプスは子供を諭すように言う。僕は唸り声を上げる。確かに農夫にとって文字は必要ないのかもしれない。僕は助けを求めるように兵士に視線を送った。彼は困惑しながら、難しそうに唸る。
「いや、あの。昔は一気に教育水準が上がった時もあったんですよ。ただ、その熱も最近は一気に衰えまして、やはり強制しないと、中々来ないんですよね」
「それって、労働の余裕がなくなっているってことですか?」
「ただのブームじゃないのか?」
「両方かもしれませんね。プロアニアと似たような工場施設が出来上がると、子供は教育よりそちらに出稼ぎに出る、という事も増えましたね」
「あっ……」
プロアニアの工場労働者の事を思い出す。彼らは安い給金で長時間労働しているようだった。過酷な労働条件の中で、彼らは必死に生き繋ごうとしていた。それがムスコール大公国でも起きているというのは、更に僕の心を揺さぶる。しかし同時に、この国で解決できそうな問題もそこにあると確信した。
「それは今しか解決できない問題かもしれない……」
ルプスは気だるげに微笑む。冷え切った足元を見ると、かじかんだ靴先の雪が溶け、薄っすらと濡れていた。
「ありがとう。後、サクレの事、宜しく」
僕は立ち上がる。ルプスは心底嫌そうに眉を顰めた。
「あいつさぁ、絶対俺の事嫌いだよな。コート掛けようとしたら手を出されるしよ、最近は直ぐ目を逸らすんだよな」
ルプスは不機嫌そうに視線を外す。彼の言い草に思わず吹き出してしまう。彼は不機嫌そうな視線を僕に送る。僕は笑いをこらえながら、「いや、うん。何でもない」と早口で答え、その場を後にした。
僕だけが鈍感と言うわけではないことを知り、何となく安心したのだった。




