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黒と白の境界 1

 新作は完全に専門外のテーマですが、お付き合いいただければ幸いです。

 黄色い宮殿からは美しい庭園が見える。中央の噴水では女神が意気揚々と錫杖を掲げ、その高く聳える天辺から水を噴出する。キラキラと空に飛び散る水飛沫は美しいものだけを映し出し、鮮やかな虹を生み出す。掲げられた錫杖は正しく美を追求し、掲げる本人は長いドレスの裾を持ち上げる。白と灰色の皺はたくし上げる手から徐々に少なくなっていき、足元の皺と皺の間には広い隙間が開いていく。目にも鮮やかな緑と赤の庭園は、よく手入れされた均整の取れた低木で満たされている。


 城の中に目をやれば、美しい神々の世界が広がる。軍神オリエタスの闘いの記録は祖先のお気に入りの一節であり、至る所に闘いの様子を描いた絵画がある。白い壁面に等間隔で描かれる戦場の様子は、いずれも勝利の剣を掲げるオリエタスの姿を中心として、荒野や、城壁の前や、首塚を背景に描かれている。

 物語の終わりには、大樹が描かれ、その下で横たわるオリエタスがある。大樹の赤い果実を啄む、オオタカのような双頭のベルクートは、神代の終わりとともにこの大地、エストーラに降ろされた新たなる守護者、即ち皇帝を象徴するものだ。


 壁から目を離すと、ガラスケースの中に黄金に輝くものがある。形を持たない光の主神ヨシュアの象徴とされる聖餐のレプリカは、かつて世界の中心に位置した、天上の言葉の伝道師達より賜った、一族の家宝である。

 僕は窓から離れ、部屋を後にする。煌びやかな栄光に満ちたこの客室を出ると、絢爛豪華なロココ調の廊下が広がる。壁面か床に至るまで、余すところなく着飾った廊下には金メッキの燭台があり、メッキを剥した受け皿を除いて、全てが黄金特有の暖かい輝きを湛えている。

 使用人や家族の目を盗み、こっそりと城を抜け出す。人通りの少ない、目立たない迂回路を通り、最も目立つ階段を降り、玄関に降り立つ。客人を圧倒する為に作られた軍神の銅像が広い踊り場で出迎え、荘厳な杉の扉を見下ろす。

 階段を慎重に、ゆっくりと降りると、終始緊張した様子の先祖代々の胸像が廊下に広がる。誰も彼も、最早この世におらず確認する余地もないが、一人を除き大層美形に刻み込まれており、僕としては、何となく面白くない。たった一人の偏屈そうな鷲鼻の男は、しゃくれた顎を引き、怯えた男が必死に敵を威嚇するような表情で、真っ直ぐに扉を見つめている。

 早足で階段を降りると、警備兵に微笑して挨拶をし、庭園を抜け、町へと繰り出した。



 町の賑わいは変わることが無い。町人に紛れてベルクート離宮を振り返ると、飛行するベルクートの生き生きとした像が頂上から僕を見下ろした。彼は僕を険しい表情で見つめながら、雑踏にその爪を向ける。曲がった嘴は鋭く尖り、大通りに一直線に向いている。


 大通りの賑わいは僕の心を癒した。雑踏に紛れることは、不思議と僕の心に安らぎを与える。それは、恐らく「混ざり合う事」に安息を覚える、幼い頃からの性格のためだろう。雑踏は、唯一自分が何者でもないことを示してくれる濁流の様なものであり、僕の地位や、性格や、立場などを全てのみ込み、隠してくれる。人の波が僕を飲み込むならば、城壁に囲まれたこの都、ノースタットはため池の様なものだろう。

 絶え間なく動き回る水の粒子が作り出す流れの一つになって町を彷徨っていると、僕を認めた店員たちがこぞって僕の足を止めようと声をかける。それを微笑で誤魔化し、道を歩く。

 大通りの流れをずっと進むと、城壁の前に行きつく。僕は地味な外装の、巨大な煙突のある建物の中に入った。


 入店を知らせるベルの音と共に、芳しい匂いが鼻孔をくすぐる。じらすような、甘ったるいパンのにおいは、僕がノースタットで慣れ親しんだ様々なパン焼き工房のなかでも格別のもので、つい立ち止まって大きく息を吸い込む。僕を認めた店主は、出来立てのパンを客に手渡し、ピッタリの料金を受け取りながら、笑顔を見せた。


「おぉ、これは、これは。エルド様、ご無沙汰しております。少々お待ちを」


 店主は客人たちに詫びを入れつつ、僕に向かってくる。僕は彼の手を止めることが申し訳なくなり、首を横に振った。


「こんにちは。ちゃんと順番待ちしないとだね」


 僕の言葉を聞き、客たちが特に驚きもしないのは、既に見慣れた光景だからだった。僕は城を抜け出すと決まってこのパン屋「満腹オウク亭」に入り、匂いを楽しみ、一つ噛み応えのあるバタールの類を買い、町をふらつくのだった。


 決して裕福なものばかりではない客たちは、僕を見ると少しだけ口角を持ち上げて会釈を返し、道を開ける。僕はそれを断るのだが、それは特別彼らに気を遣っているわけではない。僕は雑踏の中に紛れて「つまらない一群衆」になることに言いようのない安堵を覚えるために、特別扱いを嫌うのだ。それは道中だけにとどまらず、店内でも例外ではない。貴族としての誇りや、それを維持するための一族の努力も怠ろうとは思わないが、それ以上に、意志薄弱の僕が何とか一門と同様の努力を続けるためにも、こうした群衆に混ざる時間は失いたくなかった。


 僕のこの奇妙な嗜好を知ってか知らずか、店長を含む店舗の人々は僕を風流君主でも見るように畏敬の眼差しを向ける。僕は最後尾で静かに待ちながら、パン屋の行列が次々に捌かれていく様を見ていた。

 僕の前に並ぶ人々が減るにつれ、並べられたパンに目が行く。品ぞろえは豊かで、スープやジュースを染み込ませると程よく口で蕩ける美味い燕麦パンや、元より柔らかく、そのまま齧れば豊かな風味が口に広がる、健康的な小麦色のロールパン、杖のようなバゲット、そして僕の目当てのバタールなどが並ぶ。順番が近づいてくると、焼いたパンから落ちたくずである「パンくず」なる商品まで置かれているのが見え、着飾った貴婦人から貧相な浮浪者まで身を震わせて並ぶ姿が見られる奇妙な品揃えだった。大食漢として知られる亜人種のオークに準えた「満腹オウク亭」の名に恥じず、嗜好品から腹を満たすためだけの切れ端まで余すところなく売り捌く逞しい欲深さには感服せざるを得ない。


「お待たせいたしました、エルド様。ご注文は、いつものでよろしいですか?」


「うん、切り分けてくれると嬉しいな」


「畏まりました、今、焼きたてをお持ちいたしますね」


 僕の番が回ってくると、店長は身を乗り出して訊ねる。僕が黙って頷くと、工房から出来立てのバタールを持ってくる。僕は少しだけ余分に料金を支払い、彼らに挨拶をして店を後にした。


 ノースタットは軍神オリエタスを信仰する東の大国エストーラの首都である。それだけに、東西様々な人や商品がこの町に集まり、文字通り人混みの様相を呈する。特に、ベルクート離宮に直通する大通りは賑やかであり、雑踏に紛れるには最高の場所なのである。

 バタールは、かつてエストーラが結婚政策によって獲得したブリュージュの優れた文化との交流によって持ち込まれたもので、表面が固く、腹持ちが良い。僕のお気に入りのパンだ。


 バタールを片手に大通りをふらつくと、雑踏の中に毎年現れる見馴れた顔や、未知の顔に出くわす。

 例えば、果物屋の前を通りすぎた一頭立ての荷馬車は、海の都と呼ばれるウネッザに本拠地を置く、長く続く「ダンドロ商会」の荷馬車である。操車をするのはダンドロ商会に所属する長いひげを蓄えた強面の男で、見た目に反して気さくに話す。彼はノースタット周辺地域であるノイブルクを周回する行商人であり、相当に交友関係も広いようだ。

 また、芳ばしい匂いを上げて肉を焼く男は、僕がバタールを持って肉を頼むと必ず余分に一切れくれる気前のいいおじさんであり、彼は脂が付くのを嫌い、髭を剃り落とし、髪も極端に短く切りそろえている。よく通りすがりの小僧に禿げと罵られて怒っているので、僕は出来る限り髪型に関しては触れないように努めている。


 僕の視線に気づいたのか、おじさんは僕に片手を上げて挨拶する。僕はバタールを咀嚼しながら会釈を返し、折角なので一切れ頂くことにした。


「エルド君、お疲れさん」


 僕はそれを受け取り、塩気の強いバタールを飲み込んだ。


「こんにちは、おじさん。一切れ下さい」


 僕はバタールを差し出す。おじさんは嬉しそうに歯を見せて笑った。


「あいよ」


 おじさんは肉汁の詰まった肉を二切れ切り取ると、それをバタールの切れ目に挟み込んだ。そして、僕にお金と引き換えにそれを渡す。


「どうですか、最近は?」


 何気なく訊ねると、おじさんはニヤリと笑って金のジェスチャーをする。


「おかげさまで大盛況よ、肉の神様に感謝ってな」


「神様、かぁ……」


 僕はつい表情を曇らせる。おじさんは何かを察し、申し訳なさそうに頭を掻いた。僕は肉入りのサンドに齧り付き、満面の笑顔で咀嚼する。おじさんは安堵の表情を浮かべた。

 新たな客が現れると、おじさんは威勢のいい声で挨拶をする。僕はそれを認めると、手を挙げて別れを告げる。おじさんも軽く手を振って返した。


 僕が微妙な表情を浮かべたその理由は、昨今エストーラを取り巻く非常にナーバスな問題のためである。

 俗に「宗派戦争」と呼ばれるこの問題は、教会を中心として、権威ある教皇が行った聖典の解釈を神の意思に適う正当なものとし、これを信仰する「聖言派」と、教会に半ば反発する形で聖典に記された言葉のみを信奉する「聖典派」の対立の事である。

 エストーラ政府は公式に聖言派を銘打っており、聖典派を正しく無い教えとして排除しようとする。その一方で、エストーラで活動する聖典派には労働の正当性を主張するものが多く、その対価である金貨の適度な貯蓄を認める姿勢から、商人や職人に少なくない支持者がいる。

 さらに厄介なことに、有力な豪商や隣国のプロアニアは聖典派であり、聖言派にはエストーラ王族を含む貴族がその支持母体として存在しているため、一歩間違えれば本当の戦争になりかねない泥沼の対立にまで発展しているのだ。

 僕はトラブルを避けるためにどちらを支持するという明言は避けているが、エストーラの第三皇子であるため、商人の中には聖言派であると気にかけて言葉を選ぼうとする人がいる。これは非常にありがたい事であるが、非常に居心地の悪い事でもあった。


 気を取り直し、雑踏に紛れて歩く。城壁に囲まれた狭い空に、市場に溢れる汗や、肉や、花や、ゴミの入り交ざった匂いを掻き分けて進む。自らの低身長に一定の安堵と焦りを感じながら、僕は流れる人の群れの中を噛みしめるように歩いた。

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