ワニ思う、ゆえにワニあり
冷蔵庫のうえに居る。
きいろで平べったい躯つきで、極めてワニに似ているが、目元が常に笑っている。
その為コワさは半減だ。
しかも芋ばかり食べるので、全くもって迫力にかける。鳴きもしない。うさぎの如くおとなしい。これでは番犬代わりにもなりゃしない。
腹が空くと、冷蔵庫から下りて来る。
のたりのたりと床を歩く。
「芋。イモ。イモ。美味しいの。くなさい」と、ねだる。
芋はじゃがいもではない。さつまいもを好む。
アパートの部屋が一階なので、時々窓からのっそりと外へ出る。近所のご老人の耕している畑を荒らさないか心配ではあるが、今のところ苦情はこない。時々小学生が、「ワニみせてーー」とインターフォンを鳴らすが、家にはあげない。一人あげると次々来る。やつらはイナゴだ。はな垂れの生意気なイナゴ風情に見せるつもりはない。
なぜならワニはわたしの恋人だ。
五月の連休に突然訪ねて来たワニが、わたしへそう言ったのだ。
なんでもワニは前世立派な身なりの男性であったらしい。恋仲であったが、親が許さず結ばれなかった。悲恋に終わった恋心を抱いたまま死んだ恋人はワニとなり、現世に蘇ってきたと言う。
「なんでわたしは、ワニにならなかったんだろう?」
「カナさんは」
床に腹這いになり、芋をじゃくじゃく食べながら、私の素朴な疑問にワニがこたえる。
「実にさっぱりした気性でありました。吾と別れた後は、別の御仁と結婚致しました」
「へええ」
さもありなん。
私はあまり色恋に興味がない。面倒なのだ。
好きだと言われれば、へえそうなのと思う。相手に問題がなければ、付き合う事も厭わない。その変わり執着もしない。それで上手くいくかといえば、大抵こじれる。
ーー君は僕など好きではないのだろう。
はなから知っていると思っていた事を、声高らかに叫んで男たちは去って行く。
正直意味が分からない。そんな時ワニが来た。
ワニは前世でのわたしの薄情さを責めない。
「カナさんが幸せそうで、安心して死ねました」
そう言いながら芋を食べる。
「迷惑でしたら追い出して、くなさいね」
そう言うワニに絆された。
しかも相手はワニである。
わたしに面倒な要求もしてこない。同居している男ーー但しワニ、が居ると言えば、恋愛問題に巻き込まれない。実にさっぱりと楽である。
「名前をつけなくちゃいけないねえ」
そう言うと、ワニが幾分悲しげな顔をする。ワニであるが、これがなかなか表情豊かだ。
「名前ならあります。訪ねた日に伝えております」
「おっと。そうだった?」
同居してから一月半。わたしはワニ。ワニと呼んでいた。
「それさえも忘れてしまうとは、流石に酷い」
ワニが目の玉いっぱいに泪をたたえる。何を考えているのか分からぬ目玉に、水が膜を張る。
健気な様子に、胸が震えた。
今までどの恋人に対しても、そんな気持ちになった試しがない。これも前世の縁の力か。
芋を食べているワニに、私はひしと抱きついた。地味にワニの皮膚は堅いが、かまやしない。逆にわたしの力が強かったためか、ワニが、「むほおぉっ」と咽せた。半分ほどの芋が、ながい口から転げ出る。
「バカでごめんね」
「……カナさんは馬鹿ではありません」
ワニは吐き出した芋を前足でかき寄せながら、頬をうっすら赤らめる。
「しかし若干物忘れが過ぎます」
「そうだね。そうだね。やっぱりソコがバカなんだよ。だから気を悪くせずに教えてちょうだい」
「本当に忘れているのですねえ……」
呆れた調子で、ワニが長い息を吐く。
「そうみたいだね」
ワニの雰囲気がやや持ち直しているようなので、私は軽い気持ちで、「新しい名前をつけてあげるよ」そう言った。
「ばななん」
「いやですっ」
間髪入れずに却下がはいる。
なかなかどうして。一度、臍を曲げると、扱いの難しいワニである。私がそう言うと、「ワニにへそなどあるものですか!!」
口の端を曲げて、目元だけで笑う。器用なものである。
「まあ、おいおい思いだしてくなさい。時間はまだあります」
「そうだね」
そう言いながら心配になる。
私は二十二だ。まだしばらくは生きるであろう。
だがワニの寿命が分からない。一体何年くらいであろう。
そもそも本当のワニであろうか。芋ばかり食べる黄色いワニなど聞いた事もない。スマホで検索しようとすると、目ざとく見つけたワニに、尻尾でかるく手の甲をはたかれた。
「めっ」
ワニが凄んでみせる。だが口調は可愛い。
「またそんな物で調べようとする。貴方は大学生なのですよ、きちんと書物で調べてくなさい」
今時教授でさえ言わぬ台詞をさらりと吐く。どこまでも昔かたぎなワニである。
しかし私はワニに説教されるのが、存外嫌いではないので、素直に従う。
明日は図書館へ行こう。そして帰りに商店街の八百屋で芋を買おう。
それからそれから。
誰かの為に予定を決めるというのは楽しいものだ。夜はずんずんとふけていく。
※ ※ ※
八百屋の店先に、芋がざるに盛られて売られている。
一つのざるに五本。手前にあるのは、紅あずまと紅さつまだ。どちらがどう美味いのか分からない。
半分ずつもらえないかと、店の主人を呼ぶ。いつもの親爺ではなく、娘さんが現れる。三十ほどの妙に色っぽい女性だ。
「それよりも、こちらが良いですよ」
安納いもと書かれたざるを指差す。
「お宅のワニちゃんの好物ですから」
そう言いいながら、こちらを見る目つきが怪しい。まるで値踏みするようだ。
「ワニをご存知で?」
「ええ、そりゃあもう。アヤと伝えてくだされば分かります。そら一本おまけしておきますね」
そう言って芋のはいった袋を渡す時に、小指のさきできりりと手の甲をひっかかれた。
「あら、いやだ。ごめんなさいね」
女があさく笑う。
ゼッタイわざとだ。赤いみみず腫れをつけたまま家路を急ぐ。
腕のなかの袋が妙に重たく感じる。なに、たかが芋六本。気のせいだ。女の視線も気のせいだ。
そう言い聞かせるのに、足は止まらぬ。
スニーカーで商店街をずんずん抜けて行く。そのまま速度を落とさずに、アパートの手間の公園を抜ける。ケヤキの下のベンチに、ちらと見慣れた尻尾を見つけた。
ワニである。
また窓を抜け出したのだ。しかも遠目でも、ワニは一人ではない。
ベンチには水色のブラウス姿の女がいる。しっとりとした黒髪の女だ。清楚系だ。
清楚系の女の膝にワニがいる。腹を女の膝にのせ、尻尾をふっている。女の手がワニのごつごつした背を撫でてている。早歩きをしていたせいか、荒い呼吸をしずめながらそっと近づく。
ケヤキの陰に隠れるようにして、ワニを見る。
膝のうえに乗り切らぬ、太い尻尾が左右に揺れている。
「芋くなさい。ユキさん、芋です」
「はいはい、あーーん」
清楚系ユキさんが、ワニのぱっかり開いた口へ芋を押し込む。
ワニが喰らう。
尻尾が揺れる。
その様子に腹が立つ。血がふつふつとわき上がり、考える前に行動にでた。
「ばかっ!!」
ケヤキからぱっと躍り出ると、持っていた芋を袋ごとワニへと投げつけた。
そのつもりであったが、興奮していたせいか、芋は見事に清楚系ユキさんの頭に当たった。ユキさんが「いたっ」と米神を抑える。
ワニが何事かと、こちらを振り返る。
目が合う。ワニの縦にながい虹彩がわたしをとらえる。
その目が雄弁に心中を語っている。「マズイ」、と。
「ばかっ!! 浮気もの!!」
わたしは真昼の公園で怒鳴り声をあげると、「カナさんっ」叫ぶワニを残して脱兎のごとく駆け出した。
その夜。
家のドアをノックする音がした。
わたしは無視した。ビールを飲んで、布団をかぶり、耳を塞いで目を閉じた。
次の夜も。
次の次の夜もノックは続いた。わたしはずっと無視を続けた。
ノックの合間にワニが言う。
「決して浮気ではありません」
「カナさんを探すまでの間に、お世話になっていただけです」
「食べなければワニとて生きていけません。八百屋で働きました」
「ユキさんの手芸店で、お使いをしておりました。それだけです」
「許してくなさい。ゆるしてくなさい」
ワニの懇願は続く。
続けば続くだけ。わたしは頑なになっていく。
今まで恋人にどんな冷たい態度をとられても、こんなにも頑なになどならなかった。
なのに今回は悔しくて、悲しくて、口惜しい。
ワニの奴など不幸になっちまえ。そういうどろどろとした感情が、いくらでも胸の底からわいてくる。
夢も見ぬ夜が続いた。
扉は開かれず、しまいに鳴らなくなった。
台所の隅では、食べるものがいなくなったさつまいもが、根をくねくねと伸ばしていった。
※ ※ ※
覇気の上がらぬまま幾日かがすぎた。
大学のかえり道で、小糠雨に降られた。
七月になってもまだ梅雨はあけていない。郵便受けから顔をだすチラシを抜いた。チラシは湿気を吸い取ってくたりとなっている。チラシの間から、ぽたりと緑いろが地面に落ちた。
トカゲかバッタかと思って、思わず半歩躯を引く。
緑いろは動かない。よくよく見ると紙である。おり紙で折られたものだ。
「なにこれ?」
小学生が間違えて入れていったのだろうか。
よこに長い長方形で、慎ましやかな手足がある。
ダックスフントであろうか。
そのままにしていても、紙の犬は雨に濡れてゴミになるだけだ。わたしはつまみあげるとチラシと共に下駄箱のうえに置いた。
それから毎日おり紙は郵便受けにある。
多い日など開けると、ざくざく五匹の犬がでてきた。不思議であったが、不気味ではなかった。
多分犬がユーモラスな格好をしていたせいだろう。
精巧なものではない。子どもが一生懸命折ったような、たどたどしさがあった。
みどり。きみどり。青。みず色。ピンク。様々な色をしていながら、形は皆不細工だ。下駄箱のうえに犬が一列に並んでいく。朝な夕なに犬を眺めて家を出た。
この犬を大学構内でみつけた。
夕刻の食堂にわたしは居た。
食堂内にあるパン屋の値引きが始まる時間であった。トレーに値引きシールの貼られた塩ぱんとコロッケパンを乗せ、顔をあげると紙の犬が居た。
レジ横に四匹いる。「どうしたんですか? これ」
指差し聞くと、「ああ、これ」レジを打つおばちゃんが笑顔で応える。
わたしは小銭で代金を払うと、パンを受け取りダッシュで走った。
食堂を出て、左へ曲がる。構内のスタバと職員駐車場に挟まれてある図書館へ向かう。
滅多に来ない図書館は、大勢の利用者がいても尚、しんと静まり返っている。わたしは息をしずめると、貸し出しカウンターへと向かった。
ある。
話しに聞いていたとおり、そこには天井につかんばかりの大きさの巨大な竹がある。
竹からはこれでもかと、様々な短冊、笹飾りが吊るされている。さらに赤と金色にひかり輝くクリスマスツリーのオーナメントまでが吊るされている。実に奇妙な風体だ。
開け放たれた図書館の窓から吹込んでくる湿気まじりの重たい風が、笹の葉を。短冊を。さらさら揺らす。ツリーの星もさらさら揺れる。その合間にわたしは、紙の犬を見つけた。
ひとつ見つけると、十も二十も目に飛び込んでくる。
地味なので目立たないが、凄い数がぶら下がって揺れている。
わたしがややしばらく、ぼけらと笹を見上げていると、わたしのふくらはぎを押すものがいた。
痴漢ではない。第一突っ立て居るおんなのふくらはぎを押すためには、その者は地べたに寝そべる必要がある。
夕刻の図書館でそんな事をしていたら、不審者であろう。だがこいつは違う。元々そのような形なのだ。
「カナさん来てくれたのですね」
小さな。ちいさな声であった。
振り返るとワニが居た。なんだか一回り縮んだように見えるのは気のせいだろうか。
ワニは首に風呂敷を結わえている。そこから色とりどりのおり紙が見え隠れする。
「あんたが折ったの?」
わたしはしゃがむと、風呂敷包みからおり紙を一枚抜き取った。
まさしく我が家の郵便受けに入れられていた犬だ。
「いえ。リツ子さんです」
またおんなか。
ワニの答えに、わたしはカッとなって立ち上がった。
このワニはあっちこっちで様々なおんなに良い顔をしては、芋と塒を得ているのだろう。わたしはよく通る大きな地声でワニをなじった。
「カナさん。カナさん、しいいいっと、してくなさい」
ワニが慌てた調子でわたしを止める。
「図書館で騒いだら、リツ子さんにぽいされます」
ここまで来てそのおんなを気にするのか。
余計腹がたち、思わずワニを蹴っ飛ばしてやろうとすると、後ろからいきなり頭をはたかれた。
「五月蝿いよ、あんた」
わたしをはたいたのは、きついパーマをあてた五十代程のおばちゃんであった。
青いうわっぱりを着て、「沢田」と名札をつけている。
「リツ子さんっ、すみません」
ワニがおろおろと、わたしとおばちゃんの間に入って来る。
ではこのおばちゃんが、犬を折った件の女性かっ! わたしは呆然と目の前に仁王立ちで佇むリツ子さんを眺めた。
「あんた、よかったじゃない」
リツ子さんは下を向くとワニへ言う。
「ちゃんと迎えが来たじゃない」
迎えとはわたしの事であろうか。
「はい。おまじないが効きました」
ワニが嬉しそうに弾んだ声で応える。
わたしは別に迎えに来たわけではない。ただここに黄色いワニらしきものが出没すると、パン屋で聞いたから来たまでだ。
「あんたもさ」
リツ子さんがわたしの肩をぽんと叩く。肉厚の分厚い掌だ。
「この子の事情も聞かずに閉め出しちゃあダメじゃない。人間同士。まずは対話だよ。後ね、あんた小学生じゃないんだから。ここ大学の図書館だから。分かっていると思うけど調べものしたり、本読む場所だから、痴話喧嘩ならば余所でやんなさい」
そう言って肩を二度三度と叩く。
いや、何か上手い事話しがまとまろうとしているけど、そもそも人間同士ではない。
これワニだし。
しかしリツ子さんに毒気を抜かれたわたしは、口を挟む余地もないまま、ワニと共に図書館を出された。
人通りの多い道をワニと共に、のたのたと家路を辿る。時折すれ違う人がワニに気がつくと、短い悲鳴をあげて避けて行く。その度にワニはなんとも奇妙な表情を浮かべる。困っているような。恥じているような。怒っているような顔をする。
商店街の道すがら。立ち並ぶちいさな笹にも短冊が揺れる。そしてちらほら犬が下がっている。
「あんた。こんな所にも吊るしたの?」
わたしの問いかけに、ワニが嬉しそうに頷く。
「はい。お星さまへ願掛けをするのならば、多い方が良かれと思いました」
「図書館の沢田さんにわざわざ作ってもらって?」
「はい。司書のお手伝いのかたわら折ってもらいました」
「司書なんだ」
「はい。ベテランさんです」
「でも、なんで短冊じゃなくて犬?」
わたしの質問に、ワニは目をかっ開くと、「え?」と言ったきり絶句した。
その大袈裟な態度に、思わずわたしも「え?」と呟く。
やがてワニは惨めな声を絞りだし、「犬ではありません。これワニです」と言う。
「ええ? ダックスフントかと思ったよ」
「カナさん視力落ちましたか? どっからどう見てもワニ以外の何者でもありません。なにせ、図書館にあるたのしいおり紙100選から抜粋して折ってもらったのです」
鼻息荒くワニが言う。
「そうなんだ……」
「そうなんです。ですから誰がどう言おうとワニなのです。ワニです。ワニワニ」
余りにワニワニ五月蝿いので、しまいにどうでも良くなって、「ああ、分かった。わかった。ワニです、ワニ」と妥協する。
商店街のまっすぐ続く道にのぞく夏空が、うっすらと翳ってきている。
夏の空気は、ねっとりとおもたく暑い。首筋に貼り付くシャツを伸ばしながら、ワニへ視線を向けると、目があった。
「吾はワニです」
ワニが改まった調子で言う。
「こうして蘇ってきましたが、どこまで、どういきついてもワニなのです。なのでカナさんは、カナさんのさいわいを求めてくなさい」
言いながら、目の玉にはうっすら水の膜が張る。
わたしはこの目に弱いのだ。
卑怯者め。わたしは肩をすくめると、「分かった。わかった。とりあえず家へ帰ろう」降参した。
「では吾は許されるのでしょうか」
ワニが小首を傾げる。
「うん。まあいいよ。わたしも意固地になっていたし」
そう言うと、やれ嬉しいとワニが地べたに尻尾を打ち鳴らす。
「ところで、おり紙の短冊にはお願い事が書いてあるの?」
「むろんです」
わたしの質問にワニが胸を張る。
「そら、一枚開いてみてくなさい」
ワニから先ほど失敬していた一枚を開ける。ワニの形がほどけて、四角い紙の白面に、ワープロで打ったと思わしき字が印刷されている。
『 吾人品骨柄卑しからぬワニとなりたひ 』
「……なにこれ?」
まず読めない。
わたしの言葉に、ワニがじと目で見上げてくる。
「品性風格共に卑しくない人物となりたいとの願いです。まさかと思いますが、読めますよね?」
痛いところをついてくる。
「当たり前じゃん。あはははは」
わたしの乾いた笑い声が虚しく響く。
ワニが風呂にはいっている間に、こっそりスマホで検索しよう。そうしよう。
七月七日の空を眺め、わたしはそう決意した。
夕なずむ空には、しろい月がぽかりと浮かんでいる。逢瀬びよりの夜空である。
完
ど・シリアスの長編公募作品を脱稿した途端、ふたつの事をしたくなりました。
「アイスが食べたい!!」 スーパーへ走り「MOW」バニラ味で疲れた脳みそに甘味を与えました。
次に、「阿呆なはなしを書きたい!!」 ワニが登場しました。
最初から最後まで阿呆な話しです。感想やご意見をいただけると嬉しいです。感想くなさい。
原稿用紙換算枚数 約20枚