小説って、なんだ?
最近、全然小説を書いていなかった。「忙しいから」「モチベーションが保てない」など下らない理由で先延ばしにしてきた。せめてモチベーションアップのために、他人の執筆した小説を読もうとも思ったが、ここのランキング上位はタイトルから読む気が失せる。検索を念入りにして(所謂スコップというものだ)、ようやく一つだけ、定期的に読める小説を見つけることが出来た。スコップした甲斐があったものだと自分を褒めたくなる。
さて閑話休題。自分は最近、小説家になろう関連のまとめブログを閲覧する機会が多くなってきた。悪趣味であることは分かっているのだが、現在のトレンドや動向を窺うにはうってつけなのだ。そこで「書籍化されるために最低限やるべきこと」というものを見たが、一通り読むと首をかしげる結果にしかならなかった。以下がその一例だ。
まず第一に、「なるべく改行しろ」。横書き小説であれば、行間を詰めると何となく読みづらくなってしまう。そこは自分でも感じる。しかし書籍化の際には、普通は縦書きで行われる筈だ。不思議なもので、縦書きになると行間を程良く詰めると、途端に読みやすくなるのだ。場面転換や心情の描写など、大事な場面で使うと効果てきめんらしい。「沢山改行する」という行為は、縦書き小説の基本から逆行しているのではないかと、私は思う。
問題は、趣味で書いている人はこれで良いのかもしれないが、書籍化を目指す作家がそれをやっているのだ。彼らが目指しているのは、横書きでも問題ないケータイ小説の書籍化なのだろうか。縦書きの形式に慣れないと、小説家として大成しないのではないのだろうか。
二つ目は、「出来るだけ台詞だけにしろ」。伏線など、主人公に喋らせなければ分からない読者が多いらしい。地の文が長くなりすぎるのも考え物だが、だからと言ってその解決策が「台詞だけで全てを説明する」ことになるのだろうか。何事もバランスが大事だと思うのだが。
自分を主人公に投影し、状況や結果をさも分かったかのように延々と話す。そして周囲から称賛され、感情のない人形のようなヒロイン(それも複数)が頬を赤らめて主人公に発情する。これが昨今の読者層に受けるのだとしたら、この国は少なからず病んでいる。
最後に「擬音を沢山使え」。もはや突っ込む気も失せてくる。「もくもく」「キラキラ」など、地の文に適応しうる擬音は結構ある。これらを効果的に使うことによって、情景描写をより明確にすることが出来るし、読者の想像の余地も広がる。しかし擬音というのは、面倒な描写を省くためのものではない。残念ながら、普段なら緊迫するはずの戦闘描写を、擬音と台詞で済ませてしまう小説が後を絶たない。呆れることに、そのような醜態を晒しながら書籍化にまで至ったケースもあるのだ(某キンキンなど)。
この三つを自分で整理してみて二つ気付いたことがある。一つは、「なろう小説って、小説である必要がないのでは?」ということだ。ここまで簡略化されてしまったら、もはや出来の悪い漫画だ。「漫画原作者になろう」とぼちぼち言われ始めているのも頷ける。しかしここに巣食っている、どんな手を使ってでも書籍化にありつきたい連中は、「漫画を描けるほどの画力もないけど、何とかして他人からちやほやされたい」思いを少なからず持っている。否定する人もいるだろうが、自身の作品から自己顕示欲がドロドロと漏れているのに気付かないのだろうか。
もう一つは、「彼らには作品に対する愛があるのか」ということだ。少なからず愛着を持つことによって、創作というのは成り立っているように思う。自分が知っている漫画家さんは、某青い鳥にて、「自分にとってヒロインとは『こんな女性とアレコレ(意味深)したい』と思う程に愛しい存在。そうでなければ描いていて楽しくない」といった旨のことを書いていた。それだけ愛着を持ってキャラクターを描写し、そして一定の読者層を得ることが、作家にとってどれだけ嬉しいことだろうか。反面、ここの連中は、作品を自己顕示欲に振り切って『製作』しているように感じられる。作品への愛情、その中で活躍するキャラクターの愛情など微塵もない。あるのはただ、「この作品で一発当てて、有名になりたい」という薄汚い願望だけだ。人気になるための小説の体裁だけに囚われすぎて、何かを見失っているような気がするのは、自分だけだろうか。
書きたいことは書いた。ここにいると、「小説ってなんだ?」と深く考えてしまう。自分の軸がぶれないように、自分は自分の道を歩きたいものだ。ちゃんとした「小説」を書けるようになるために。