脱出
闇が深く沈む夜半。旅装の一団が、クリスティーナの居室に揃っていた。
シェイラ達と行動を共にする兵士は5名。いずれも自ら志願したのだという。その中に、見知った人物を認めてシェイラは声を上げた。
「ダグラスさん!」
以前レオンハルトと庭園で会った時、シェイラが付き添いを頼んだ壮年の兵士だった。最初シェイラはダグラス様と呼んでいたのだが、「様なんてガラじゃねぇ」と本人に言われてからは呼び名を改めていた。
「どうして」
彼もまた志願したのだろうかと困惑気味に尋ねると、ダグラスは豪快な笑みを返した。
「アルタニアにあんたと同い年の娘がいるからさ」
囮役を引き受けたと聞いて、放ってはおけなかったのだとダグラスは言った。
「……ありがとうございます」
涙腺が緩みそうになるのを必死で耐えた。最近の自分は泣いてばかりいる、とシェイラは思う。
「礼はアルタニアに戻ってからいくらでも聞くさ」
ぽんぽんと子供をあやすように、シェイラの頭を軽く叩く。「だから今は無事に帰る事だけを考えるんだ」という言葉に、シェイラも頷いた。
隠し扉の中は、人ひとりが通れるくらいの通路が続いていた。部屋と廊下の間を通るように作られた通路を、前を歩くレオンハルトについてシェイラも進む。
壁の僅かな隙間から漏れる廊下の明かりがなければ、漆黒に飲み込まれそうなほど暗い。やがて突き当たりまで来ると、下へ続く階段が伸びていた。百段以上ある階段を降りていくと、周囲の壁が次第に石造りのものへと変わっていく。ひんやりと湿った空気に、地下へ降りているのだとシェイラは気づいた。
徐々に暗さが増す中、先頭を進むピアースがカンテラに明かりを灯す。そこでやっとシェイラにも、自分がどのような場所を歩いているのかが分かった。
上も下も石造りのトンネルが、シェイラ達の前に続いていた。明かりがなければ一寸先も見えないほどの闇に、不安を覚えながら前に進む。外に出るまでは、酷く長く感じられた。
星空の明かりを目にした時、ほっと安堵の溜息をついたのはシェイラだけではない。
「では、どうかご無事で」
クリスティーナとの別れの挨拶は酷くあっさりしたものとなった。バーナードの言葉に「あなた達も」と、クリスティーナが頷いてピアース達と共に街に消える。
シェイラ達にも別れの余韻に浸る時間はない。ナヴィドがクリスティーナの不在に気づくまでに、できるだけドゥールから離れなければならない。
「行こう」
レオンハルトの言葉を合図に、西へ歩きだした。
これより先は、シェイラ達は西海岸最南の港町を目指す。順調に行けば12日で着く行程だが、追手達の目を引きつけながら内乱の国を横断するという綱渡りのような芸当をしなければならない。
隣を歩くレオンハルトの表情は厳しい。昨日から今に至るまで、シェイラはレオンハルトとまともに言葉を交わしていなかった。一人で決断したことへの謝罪も、一緒に行ってくれることへの感謝もまだ伝えられてはいない。
きちんとレオンハルトの目を見て話がしたいと思ったが、先を急ぐ状況にあってはゆっくりと話す時間は取れなかった。
日が登り、東の空が明るく白み始めてもシェイラ達は歩みを止めなかった。三刻もの間歩き続けると、ろくに運動をしたことのないシェイラの足は限界に近くなっていた。
「休憩にしましょう」
レオンハルトから水筒と携帯食を手渡され、もそもそとそれを口にする。宮殿を出てからはじめての食事だった。その様子をじっと見つめるレオンハルトに、「レオンハルト様も何か食べなくては」と言おうとしてシェイラは言葉を失った。
シェイラを見つめるレオンハルトの瞳が、物憂げに揺れていたからだ。シェイラの表情にはっとしたように、レオンハルトが視線を逸らす。
「少し、局長と話してくるから」
その場を離れようとしたレオンハルトの服を咄嗟に引っ張り、引き止めてしまっていた。「シェイラ?」レオンハルトの顔に驚きが浮かぶ。困惑するレオンハルトの顔を覗き込んで、シェイラは顔を歪めた。
彼がひどく傷ついた顔をしていたからだ。
昨夜のあの一件が、彼を傷つけたのだと分かって、胸が締め付けられた。
シェイラが約束を破り、一人で決めてしまったことをまだ謝っていなかったと思い至る。離れないと言ったのに、その手を離そうとしたことも。
「後で話をさせて下さい」
一瞬、迷う素振りをみせた後で、レオンハルトは頷いた。「わかった。後で行く」そう言って、シェイラの元から離れる。
その後も僅かな休憩を挟みながら、ひたすら西へ西へと歩を進めた。
やがて夕日が空を茜色に染め上げる頃、ドゥールの街のはずれまで到着した。
「今日はここらで宿をとろう」
バーナードの言葉に、兵士の一人が宿屋を探しに行く。老女が一人で経営している小さな宿に空き部屋が見つかり、今日の行程はそこまでとなった。顔を見られないようフードを目深に被って二階へ上がる際、ちらりと宿主の視線が向けられたが、結局呼び止められることはなかった。
夕食後、約束通りレオンハルトがシェイラの部屋にやってきた。
女性の一人部屋に入る事を躊躇っているレオンハルトに、大切な話があるからと、シェイラは部屋に置いてある椅子を勧める。
彼女の真剣な表情に気づいて、レオンハルトは部屋へと足を踏み入れた。
「それで、話とは」
椅子に腰をかけたレオンハルトに、シェイラは立ったまま謝罪を口にした。
「すみません。今回のこと、勝手に決めて」
「……どうして謝罪など」
「だって、約束したのに。これからの事は二人で決めようって」
ごめんなさいと口にするシェイラに、レオンハルトは苦しげに首を振った。
「謝らないでくれ。あの場で君がああするしかなかったのは分かっている」
「でも」
「君が、私やクリスティーナ殿下の為に言ったのだとちゃんと分かっているから」
ではどうしてそんなに辛そうな顔をするのだろうと、シェイラには分からなくなる。シェイラの瞳がおろおろと不安に揺れているのを見て、レオンハルトはゆっくりと立ち上がった。ーーちがうんだ、と掠れた声がシェイラの耳に届く。
「私がおそれているのはーー」
手を伸ばせば触れられる程の距離で、レオンハルトが立ち止まった。レオンハルトの言葉に耳を傾けていたシェイラが顔を上げると、彼の顔に翳りが見える。
「君は分かっていない」
何を、と聞くことはできなかった。
シェイラが何か言うよりも早く、レオンハルトに唇を塞がれたからだ。角度を変えて何度も口付けが落ちる。徐々に深くなる口付けにシェイラは目眩を起こしそうだった。腰に手を回され、強く引き寄せられる。
昨夜の何が、彼をこんな風にしたのだろう。昨日のやりとりが次々に思い浮かんだ。彼の制止を振り切って志願したこと。彼が一緒に行くと言ったのを止めたこと。
そのどれもが原因のようで、けれどどれも違うような気がした。
腰に回された腕が解かれた時、低く、掠れた声が耳を打った。
「ーーおやすみ」
そのままシェイラを部屋に残し、レオンハルトはその場を後にした。どうしてと問う声は言葉にならなかった。彼にかける言葉を見つけられないまま、シェイラは呆然とその場に立ち竦んだ。




