夜会前
クリスティーナのいる居室は、衛兵の間と呼ばれる控え室を通らなければ出入りができない。ここでは、アルタニアからの精鋭が30人、10人ずつ交替で昼夜を問わずクリスティーナの居室を守っている。
シェイラ達侍女に与えられた部屋は、この衛兵の間から続く個室だった。
一人になると、途端に昨夜の出来事が頭に浮かび、シェイラは顔を真っ赤に染め上げた。
婚約をしていた時でさえ、抱きしめられたことはないというのに。とんでもないことをしてしまったのではないか、という思いと、シェイラの痛みを分け合うようなレオンハルトの温もりを思い出しては胸がつまる。
彼から貰った沢山のものを、どうすれば返すことができるのだろう。
あの幼い日から今日まで、シェイラがレオンハルトから受け取ったものはあまりにも多い。彼は、殻に閉じこもりがちの、人慣れぬ小さな子供に心を与えたのだった。嫉妬や不安という決して美しいとは言えない感情でさえも、彼がいなければ知ることはなかった。
レオンハルトの役に立ちたいと思うのに、今のシェイラが彼に渡せるものは何もない。それがひどく、辛かった。
明日の舞踏会で、自分はどんな顔をして彼と会えばいいのだろうか。そして彼はどんな顔をするだろうかと考える。そんなことを思いながらベッドに入り込むと、不思議なほどあっさりとシェイラは眠りに引きずり込まれたのだった。
翌朝、日が昇る前から起き上がったシェイラは、身支度を整えはじめた。髪を慎重に結い上げていく。出仕したばかりの頃、あまりにも残念なシェイラの髪結いの腕を見かねたベスとエイミーが教えてくれた方法だ。「簡単だけど、それなりにちゃんとして見えるから」と。
身支度を一通り終えると、ふと思い立ってアルタニアから持ってきた荷物の中から夜会用のドレスを引っ張り出す。舞踏会のためにドレスを貸してくれないだろうかと、義姉アンネに書き送った手紙に「素敵な夜を」というメッセージカードとともに送られてきたのがこのドレスだった。一目見てシェイラの為に選んでくれたのだと分かる、濃い紫の瞳によく合うラベンダー色のドレスである。ドレスに勇気をもらって、なんだかレオンハルトの顔をきちんと見れるような気がした。
控えの間で衛兵に朝の挨拶をしてから、クリスティーナの部屋をノックする。
何度か繰り返すと「どうぞ」という声が中から聞こえてきた。
「おはようございます。今日はとびきり綺麗に致しましょうね」とシェイラが言うと、クリスティーナも眼をこすりながら微笑んだ。
朝食を済ませた頃、ゴルゴナの侍女が数人クリスティーナの部屋にやってきた。
簡単に挨拶を済ませると、彼女たちにクリスティーナの着付けについて注文を伝える。これにはシェイラのゴルゴナ語が大いに役に立った。
エイミーと交替で、クリスティーナから目を離さないようにしたからか、はたまたシェイラ達の杞憂だったのか定かではないが、幸いゴルゴナの侍女におかしな行動は見られなかった。それどころか彼女達のテキパキとした仕事ぶりに夜会がはじまる随分前に、すべての支度が終わったのだった。
「殿下、とてもお綺麗です」
「ありがとう。二人も素敵よ」
シェイラもエイミーも、クリスティーナの仕上がりに大いに満足した。亜麻色の髪は複雑に編み込まれ、クリスティーナの可憐さを引き立たせるピンクのドレスの胸元には、小粒の宝石をあしらった首飾りが光る。妖精のような可愛らしさだった。
二人もそれぞれに支度を済ませていた。シェイラが鏡を覗き込んだ時、半年前より随分大人びた少女がそこにいた。久しぶりに夜会用のドレスに身を包むと、年頃の少女らしく心が浮き立つのを感じる。
レオンハルトは何と言ってくれるだろうか。かつては「よく似合っている」と穏やかな笑顔を浮かべるのが常で、その後には紳士らしく、シェイラの装いを褒めてくれたものだった。
舞踏会が行われる大広間へは、アルタニアの面々は揃って入場することになっていた。
クリスティーナを先頭に控えの間に入ると、既に全員揃っているようだった。外務局の面々はオリヴィア以外は、全員揃いの正装をしている。彼らが着ているのはアルタニアの軍服である。かつて、外務局が軍部に属していた時代の名残りだという。
控えの間に集まった一団の中にレオンハルトの姿を見つけて、シェイラの視線は自然とそちらへ向かう。揃いの服に身を包んでいても、彼は人目を引いた。
黒に近い濃紺の軍服の襟元には、金糸の細かい刺繍がほどこされ、左肩から右の腰に青い大綬が斜めがけされている。それが、細身ながら適度に鍛えられた長身によく似合っていた。金髪が暗色の軍服に映え、さぞや令嬢達の視線を集めるだろうと思わせる貴公子ぶりである。
シェイラが彼を見つけたのとほぼ同時に、レオンハルトの方もシェイラを視界に捉えていた。
ーー結論から言えば、彼は笑わなかった。
息を飲んでシェイラを見つめ、微動だにしない。そのレオンハルトの瞳にシェイラまで絡め取られたように固まってしまった。これまでにないほど熱を帯びた視線に、名状しがたい痺れが背中を駆け巡るのを、シェイラは感じたのだった。




