新月 二、
蝋燭の灯火が、障子に二つの影を浮かび上がらせていた。
「父上、今なんと申された?」
六畳程の座敷で対座しているのは、幸右衛門と慎之介である。
「忠行殿は何者かに毒を盛られたようだ」
「毒……」
「これは、あの場に居た者とおぬししか知らぬこと。他言は許さぬ」
それだけ言って腰を浮かせた幸右衛門の襟首に、慎之介は掴みかかった。
「何故忠行殿が毒殺されねばならぬのですか⁉」
「下がらぬか、慎之介」
「下がりませぬ! 父上が付いていながら何故この様な事に? 下手人は捕まってはおらぬのですか?」
「未だ何処の手によるものかわかってはおらぬ」
「ならばこの慎之介が命に代えても下手人をつきとめ、その首を捕って参ります!」
「思い上がるのもいい加減にせいっ!」
したたかに頬を殴られ座敷の隅までふっ飛んだ慎之介は、口の端に流れた血を袖口で拭い、これまでに感じたことのない怒りに震えた。
己の血が全て脳髄へと流れ込み、ふつふつと沸き立つ。行き場のない赤い液体はいずれ頭蓋を突き破り、一滴残らず外へと流れ出すだろう。後に残るのは、抜け殻だけだ。
だが、それでもよいと慎之介は思った。
(下手人の首を土産に、直ぐにお傍へ参ります――)
幸右衛門は慎之介の傍らに片膝を突くと、先とは打って変わった静かな声音で語りかけた。
「おぬしの気持ちはよくわかる。だが、今動くことはならぬ。江戸からの知らせを待つのだ」
「手をこまねいてただじっとしていろと?」
「そうだ」
切れ長の眼が慎之介を正面から見据えた。
「間者はすぐ近くに居るのかもしれぬ」
「⁉」
「おぬしに頼みがあるのだ」
幸右衛門は懐から書状を取り出すと、慎之介の膝元へ置いた。
「この書状を外岬の喜田則充殿の屋敷へ届けてもらいたい」
「則充殿の……。これは一体」
「件の詳細を記してある。何かあれば力になってくれるであろう」
外岬藩喜田家といえば秋山家とは血縁関係にある。だがどういう訳か、慎之介の知る限りここ数年間は疎遠となっていた。
「何故今になって」
幸右衛門はその問いには答えず、蝋燭の炎が揺れるのを見つめたままで呟いた。
「忠行殿の愛したこの地をわしは命に代えても守らねばならぬ。血を絶やしてはならぬのだ。それが筆頭家老である、わしの役目なのだよ」
そう言うと、再び慎之介に視線を戻した。
「忠行殿の最後の言葉はおぬしに宛てたものであった。心して聞け」
「はい」
慎之介は姿勢を正し、父の言葉を待った。
『慎之介、あとは宜しく頼む』
これまで堰き止めていたものがいっきに噴出し、それは涙となって顔を濡らした。
幸右衛門も声を殺し、肩を震わせて泣いていた。
あくる日、朝靄の中を慎之介は外岬に向けて馬を走らせていた――。