新月 一、
『弓月に 出逢ひしつのる この想ひ 吾が手の中の 螢のごとし――――』
咲埜の山麓に抱かれ、ひっそりと佇む小さな城下町。
常ならば亥の上刻(午後十一時)ともなれば、どこも戸を閉め切り、聞こえてくるのは虫の音ばかりだが、この日は何かが違っていた。
蹄の音が静まり返った通りに響き渡り、空気を震わす。
早馬が澄ノ江川に架かる石橋を疾風の如く駆け抜けていった。
「隗、あと僅かだ。辛抱してくれ」
隗と呼ばれた見事な栗毛の蹄には血がにじみ、月明かりに照らされた砂利道には点々と赤黒い染みが続いている。
若い侍は三日三晩、寝食も忘れて馬を走らせてきた。
「忠行殿、どうかご無事で。この慎之介ただ今参ります」
齢のころは十七、八といったところか。
平素であれば人目を惹く目鼻立ちであろうが、今や砂埃で汚れ、頬には薄っすらと不精髭すら生えている有り様だった。
香田慎之介はただひたすらに馬を急がせ、猛然と突き進んでいた。
目指す先は咲埜藩七代目藩主、秋山忠勝の三男、秋山忠行の居住まいである。
隗が何かを察したかのように嘶き、門前で足を止めた。
屋敷はまるで海底のような漆黒の闇と静寂の中に沈み、慎之介の心に否応なく冷たい影を落とした。
「忠行殿っ!」
なかば転げるようにして入った座敷には、僅かに数人の家臣が居るのみである。
「一刻程前だ……」
慎之介の父であり、咲埜藩国家老の香田幸右衛門が声を震わす。
「おぬしの名を幾度も呼んでおった。慎之介は未だ戻らぬのかと……」
亡骸は家臣達に守られるようにして、静かに横たわっていた。
その傍らにがっくりと膝を突いた慎之介は、食い縛った歯の隙間から洩れる嗚咽をどうしても堪えることが出来なかった。
「忠行殿、遅くなり申し訳御座いませぬ……」
涙の雫が頬を伝い、ぽたりぽたりと落ちる。
そこには、未だ温もりの残る端正な顔立ちの少年が、硬く瞼を閉じていた――。