月光の張り込み
夜十時四十七分。
港区の住宅街は、妙に静まり返っていた。
空には満月。街灯よりも白く、やけに仕事熱心な月だった。
エンジンを切ったパトカーの中で、二人の女性刑事が缶コーヒーを手にしている。
「……月、明るすぎない?」
運転席の下村百合子が、窓の外を見上げながらぼそりと言った。
「ほんとですね。ライトいらないくらい。顔まで照らされてます」
助手席の熊沢夏美が、カーテンの隙間から外をのぞき込む。
「ライトがいらないって、褒め言葉じゃないのよ。見てみなさい。あの公園のベンチ。あれ、冬月レナでしょ。丸見えじゃない」
「えっ、うわ。本当だ。顔までくっきり。雑誌のグラビアより解像度が高いですね」
百合子はため息をついた。
張り込みに必要なのは忍耐と暗闇だ。ロマンチックな照明など必要ない。
「満月って、ムードはあるけどムーブはしづらいのよね」
「……どういう刑事ギャグですか、それ」
「自分でも今、ちょっと失敗したと思ってる」
軽い沈黙が流れた。
パトカーの銀色のボディが月光を受けて、ギラギラと輝いている。
百合子は窓の外に目をやり、眉をひそめた。
「ちょっと熊沢。車体、反射してるわよ。これじゃステルス機能ゼロじゃない」
「すみません。さっき洗車したばっかりで……」
「張り込みの日に洗車する新人がいる?」
「汚い車で張り込むのも、犯人に失礼かなって」
「どこのおもてなし捜査よ」
「でも、きれいな車のほうが警察のイメージもいいじゃないですか」
「犯人に警察のイメージを売り込んでどうするの」
熊沢は納得したような、していないような顔で缶コーヒーをすすった。
そのときだった。
公園のベンチに座っていた冬月レナが、ゆっくりと立ち上がった。
片手にはコンビニの袋。
そして、まっすぐこちらを見ている。
「……目、合いました」
熊沢が小声で言った。
「ウソでしょ」
レナはしばらくパトカーを眺めたあと、右手を高く上げて振った。
そして、驚くほどよく通る声で叫んだ。
「隠れるなら、せめてカーテン閉めたほうがいいですよー!」
沈黙。
夜風だけが二人の間を吹き抜けた。
「……めっちゃ声、通りますね」
「ボイトレしてるな、あの子」
「犯人がボイトレしてる世界、イヤですね」
「感心してる場合じゃないでしょ」
レナはコンビニ袋を持ち直すと、さらに声を張り上げた。
「ていうか、もう捕まえちゃっていいですかー? こっちも時間ないんでー!」
百合子は額に手を当てた。
「……熊沢」
「はい」
「私たち、何時間ここにいた?」
「三時間半です」
「その三時間半、全部見られてた可能性あるわね」
「えっ。じゃあ、私たちがさっき食べた肉まんも?」
「そこまで見られてたら、もう防犯カメラの映像よ」
百合子は無線に手を伸ばし、できるだけ冷静な声で報告した。
「現場より本部。対象者に先制されました。繰り返します。対象者に先制されました」
無線から、本部の困惑した声が返ってきた。
『……どういう意味だ?』
「犯人のほうが、こちらを観察していました。現在、こちらが張り込まれている状況です」
『……警察が?』
「はい。警察がです」
熊沢が小声で付け加えた。
「逆張り込みですね」
「新しい捜査手法みたいに言わないで」
その間にも、冬月レナは公園の出口に向かって歩き始めていた。
「先輩、逃げますよ!」
「見ればわかる!」
百合子がドアを開けようとした、その瞬間。
レナが振り返った。
「あ、あと!」
二人は思わず動きを止めた。
「そこのパトカー、後ろのナンバープレートに月が映ってますよー! きれいですねー!」
そう言って、レナは手を振りながら歩き去っていった。
百合子はドアノブを握ったまま固まっていた。
「……熊沢」
「はい」
「今の、褒められたのよね?」
「たぶん」
「犯人にパトカーを褒められる日が来るとは思わなかったわ」
「洗車しておいてよかったですね」
「あなた、まだそこにこだわってるの?」
百合子は深いため息をつき、缶コーヒーを一口飲んだ。
「本部。対象者は公園を離脱。追跡を開始します」
『了解。至急、確保しろ』
「了解しました」
無線を切ると、百合子は月を見上げた。
「月光、罪よねぇ」
「月に罪はないと思いますけど」
「じゃあ、誰のせいよ」
「洗車した私……ですかね」
「そこは否定しないのね」
二人はパトカーを降り、レナが消えた方向へ走り出した。
その後、冬月レナは無事に逮捕された。
翌朝、百合子は捜査報告書を作成していた。
「先輩、昨日の張り込みの件なんですけど」
「何?」
「報告書に、犯人に発見された原因を書く欄があるんですけど、何て書けばいいですかね」
「満月」
「それだけですか?」
「あと、車体の反射」
「洗車ですね」
「そうね」
熊沢は少し考えてから、キーボードを叩き始めた。
百合子が画面をのぞき込む。
そこには、こう書かれていた。
『対象者の発見に至った主な原因は、月光による視認性の向上、およびパトカー車体の過剰な光沢であると推測される』
「……熊沢」
「はい」
「これ、私たちの失態を科学的に説明してるだけじゃない」
「客観的な報告を心がけました」
「もういいわ。提出して」
熊沢は満足そうにエンターキーを押した。
その日の午後、本部から報告書の差し戻しがあった。
理由は、最後の一文。
『なお、次回の張り込みに際しては、洗車の実施時期についても慎重に検討する必要がある』
百合子は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……熊沢」
「はい?」
「あなた、これ本気で書いたの?」
「はい。再発防止策です」
百合子は机に突っ伏した。
窓の外では、昼間の太陽が何事もなかったように輝いていた。
「もう、夜勤は新月の日だけにしましょうか」
「新月って、いつですか?」
「知らないわよ。天文台に聞いて」
熊沢はスマートフォンを取り出した。
「調べますね。あ、先輩。次の新月、来週です」
「そう」
「その日は私、休み希望出してます」
百合子は、今度こそ本気で机に突っ伏した。




