表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/203

今川包囲網の縮小と三家臣の最期

1. 包囲網の形成と今川の孤立

義元の死後、氏真が家督を継ぐも、足利義昭を追放したことで全国の大義名分を失い、毛

利に保護された義昭が「今川追討令」を乱発。

• 毛利輝元は西国から畿内へ進出し、摂津・播磨を制圧。

• 上杉謙信は北陸から近江へ侵攻し、若狭・越前の国衆を味方につける。

• 武田信玄は甲斐・信濃から駿河・遠江を狙い、旧今川領を切り崩していく。

かつて義元が掌握した京・畿内は今川方の支配が揺らぎ、やがて尾張・美濃を失い、残る

は駿河・遠江・三河といった本拠のみとなった。

---

2. 明智光秀の最期 ― 北陸戦線

• 北陸戦線の指揮官に任じられた光秀は、謙信の軍と激戦を展開。

• 初めは戦術的巧みさで勝利を重ねたが、補給を断たれ、味方国衆が次々と寝返る。

• 越前の一城に立て籠もり、最後まで戦ったが、四方を上杉軍に囲まれる。

• 最期の言葉は「義元公の覇業、ここに潰えども、志は残らん」。

• 討死したその死は、味方の士気を大きく削いだ。

---

3. 羽柴秀吉の最期 ― 畿内戦線

• 秀吉は毛利軍の侵攻を防ぐため摂津・大和方面を担当。

• 持ち前の調略で一時は畿内の国衆を味方につけ、毛利勢を押し返すことに成功。

• しかし、毛利輝元の総力と吉川元春・小早川隆景らの働きで徐々に追い詰められる。

• 最期は摂津の一城に籠城し、毛利軍から「降れば高禄を与える」と勧められるも拒絶。

• 「今川殿に仕えし縁、死をもって報いん」と言い残し、城を枕に壮烈な討死。

• その死は「武略と智略を尽くした忠臣」として称えられた。

---

4. 徳川家康の最期 ― 東海道戦線

• 家康は三河・遠江の防衛を任され、武田信玄の大軍を迎え撃つ。

• かつての人質生活で育まれた「義元への恩義」を胸に、徹底抗戦を選択。

• 三河岡崎・遠江浜松を転戦し、数度の決戦で信玄の進軍を食い止める。

• だが補給は尽き、兵は離散。降伏を勧められるが「義元公に二心なし」と断固拒否。

• 最期は駿府城下で最後の奮戦を挑み、家臣団とともに討死。

• その死に様は、石田三成のように「義のために生き、義のために死んだ武将」として後

世に語り継がれた。

---

5. 包囲網完成と今川の衰亡

• 三傑(光秀・秀吉・家康)の死によって、今川家は柱を失い、急速に弱体化。

• 若き氏真は戦場での指導力を欠き、家臣団の統制も崩壊。

• 毛利・上杉・武田は「今川討滅」の名の下に勢力を拡大し、天下の主導権を奪い合う。

• 日本は再び群雄割拠の戦乱時代に突入した。

---

まとめ

• 光秀:北陸で孤立奮戦し、義を叫んで討死。

• 秀吉:畿内で調略を尽くすも籠城の末に壮烈な最期。

• 家康:恩義を貫き、駿府城下で忠義の玉砕。

この三人の最期によって、今川は「忠義の家」として後世に伝説化し、氏真も「暗愚な

二世」ではなく「忠臣を失った悲運の将軍」として語られる流れになるでしょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ