今川包囲網の縮小と三家臣の最期
1. 包囲網の形成と今川の孤立
義元の死後、氏真が家督を継ぐも、足利義昭を追放したことで全国の大義名分を失い、毛
利に保護された義昭が「今川追討令」を乱発。
• 毛利輝元は西国から畿内へ進出し、摂津・播磨を制圧。
• 上杉謙信は北陸から近江へ侵攻し、若狭・越前の国衆を味方につける。
• 武田信玄は甲斐・信濃から駿河・遠江を狙い、旧今川領を切り崩していく。
かつて義元が掌握した京・畿内は今川方の支配が揺らぎ、やがて尾張・美濃を失い、残る
は駿河・遠江・三河といった本拠のみとなった。
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2. 明智光秀の最期 ― 北陸戦線
• 北陸戦線の指揮官に任じられた光秀は、謙信の軍と激戦を展開。
• 初めは戦術的巧みさで勝利を重ねたが、補給を断たれ、味方国衆が次々と寝返る。
• 越前の一城に立て籠もり、最後まで戦ったが、四方を上杉軍に囲まれる。
• 最期の言葉は「義元公の覇業、ここに潰えども、志は残らん」。
• 討死したその死は、味方の士気を大きく削いだ。
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3. 羽柴秀吉の最期 ― 畿内戦線
• 秀吉は毛利軍の侵攻を防ぐため摂津・大和方面を担当。
• 持ち前の調略で一時は畿内の国衆を味方につけ、毛利勢を押し返すことに成功。
• しかし、毛利輝元の総力と吉川元春・小早川隆景らの働きで徐々に追い詰められる。
• 最期は摂津の一城に籠城し、毛利軍から「降れば高禄を与える」と勧められるも拒絶。
• 「今川殿に仕えし縁、死をもって報いん」と言い残し、城を枕に壮烈な討死。
• その死は「武略と智略を尽くした忠臣」として称えられた。
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4. 徳川家康の最期 ― 東海道戦線
• 家康は三河・遠江の防衛を任され、武田信玄の大軍を迎え撃つ。
• かつての人質生活で育まれた「義元への恩義」を胸に、徹底抗戦を選択。
• 三河岡崎・遠江浜松を転戦し、数度の決戦で信玄の進軍を食い止める。
• だが補給は尽き、兵は離散。降伏を勧められるが「義元公に二心なし」と断固拒否。
• 最期は駿府城下で最後の奮戦を挑み、家臣団とともに討死。
• その死に様は、石田三成のように「義のために生き、義のために死んだ武将」として後
世に語り継がれた。
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5. 包囲網完成と今川の衰亡
• 三傑(光秀・秀吉・家康)の死によって、今川家は柱を失い、急速に弱体化。
• 若き氏真は戦場での指導力を欠き、家臣団の統制も崩壊。
• 毛利・上杉・武田は「今川討滅」の名の下に勢力を拡大し、天下の主導権を奪い合う。
• 日本は再び群雄割拠の戦乱時代に突入した。
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まとめ
• 光秀:北陸で孤立奮戦し、義を叫んで討死。
• 秀吉:畿内で調略を尽くすも籠城の末に壮烈な最期。
• 家康:恩義を貫き、駿府城下で忠義の玉砕。
この三人の最期によって、今川は「忠義の家」として後世に伝説化し、氏真も「暗愚な
二世」ではなく「忠臣を失った悲運の将軍」として語られる流れになるでしょう。




