あの海にいた2人〜Another World〜
IFの世界設定
急に、海が見たくなった。
仕事帰り、電車の中でぼんやりと窓の外を眺めていたら、ふと頭に浮かんだのだ。潮の匂い。波の音。ひんやりと湿った風。夜の堤防。
理由は、わからない。
でも、気がついたら乗り換えていた。
何本か電車を乗り継いで、かつて住んでいたあの町へ向かっていた。
夜の海は、相変わらず静かだった。
堤防の先には、誰もいない。懐かしい岩場に腰を下ろすと、風が少しだけ吹いた。
少し冷たい風だった。夏のはじまりの匂いがした。
記憶の中のあの夜が、胸の奥からゆっくり浮かび上がる。
白いワンピース。月明かりに透ける髪。
たった一晩だけ話した、あの女の子のこと。
名前も知らなかった。いや、たしか…ナツ…?
声に出しかけて、やめた。忘れたわけじゃない。ただ、しまっていた。
深く、静かに。
「……久しぶりだね」
風に混じって、声がした。
僕は振り返った。
そこに、ひとりの女性が立っていた。
月明かりが顔を照らす。見覚えのある瞳。少し短くなった髪。けれど変わらない表情。
あの夜の、あの女の子が、そこにいた。
言葉が、すぐには出なかった。
彼女はそっと笑った。
「もしかして、まだ同じ場所にいるかなって思ったの。来てみたら、本当にいた」
「……君も、また来る気がしてた。いや、来ないかもって思ってた。でも……来たんだね」
「うん、来ちゃった」
短い沈黙のあと、僕たちは、並んで座った。
波の音が二人の間に流れ込む。前と同じように。
「覚えてる?」
彼女が聞く。
「もちろん。君のこと、忘れるわけないよ」
僕は答えた。
彼女は笑った。どこか安心したような、でも少し切ない笑顔だった。
「私もね、忘れてなかった。あの夜のこと。ずっと夢に出てきてた。あれ以来、誰にも言ってなかったけど」
潮風が少し強くなって、彼女の髪が揺れる。
静かに、夜が深くなっていく。
「私、あれから少しだけ、変われたんだ」
「……うん。僕も」
「でも、ずっと思ってた。あの夜、もしもっとちゃんと話をしてたら、連絡先を聞いてたら、って」
「同じこと考えてたよ」
そう言って、二人とも、少し笑った。
でも、それ以上は言わなかった。
それで、いいような気がした。
波が静かに寄せて、また引いていく。
風が頬をなでていく。
やがて、彼女がふと立ち上がった。
僕も、あとに続く。
二人は堤防をゆっくり歩き出す。
言葉はないけれど、不思議と寂しくなかった。
この先のことは、わからない。
もう一度離れるのかもしれないし、今度こそ何かが始まるのかもしれない。
手はつながれていない。でも、それでいい。今は、それでいい。
月が海を照らしていた。
波の音は、変わらず優しかった。




