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第一話:目覚めと絶望


アスファルトの匂い、ブレーキの軋む悲鳴、そして全身を砕くような衝撃。それが、俺、相良拓人さがらたくとの三十年にわたる人生の、あっけない幕切れだったはずだ。

次に意識が浮上した時、俺は柔らかな何かに包まれていた。微かに甘い香りが鼻腔をくすぐる。死後の世界とは、案外心地よいものらしい。重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、見知らぬ天井だった。有機的で、滑らかな曲線を描く、まるで巨大な巣の内部のような光景。


「……どこだ、ここ」


掠れた声が自分の喉から漏れた。その声に反応するように、俺を覗き込んでいた影が動いた。

一つ、二つ、三つ。

それは、人間ではなかった。


硬質的な外骨格に覆われた顔、黒曜石のように輝く大きな複眼、そして頭部から伸びる二本の触角。姿形は人間に近い二足歩行の生物だったが、その意匠は明らかに「蟻」だった。


「お目覚めになりましたか、オス様」


凛とした、しかし感情の読めない声。声の主は、ひときゅう大きく屈強な体つきをした蟻人だった。その体は赤黒い甲殻で覆われ、腰には物々しい剣を提げている。兵士、だろうか。


「オス……様?」


状況が飲み込めない。俺は自分の体を見下ろした。手も足も、確かに人間のものだ。しかし、肌の色は病的なまでに白く、手首や足首にはうっすらと体毛とは違う、繊細な感覚毛のようなものが生えている。何より、身体中に満ちる力が、以前の俺とは比べ物にならないほど希薄に感じられた。

混乱する俺をよそに、周囲の蟻人たちは歓喜に沸いていた。


「おお、なんと神々しい……!」

「これで我らがコロニー『アルヘン』の未来は安泰です!」

「女王陛下に直ちにご報告を!」


彼女たちの言葉の断片から、俺は自分が置かれた状況を少しずつ理解し始めた。

ここは地球ではない異世界。そして、俺は「蟻人アントリアン」と呼ばれる種族の、極めて希少な「オス」として転生したらしい。



俺の新しい名前は「アクト」と名付けられた。

雄としての生活は、ある意味で王族のようだった。

俺が住まうのはコロニーの中枢にある「王の間」と呼ばれる豪華な一室。食事は専属の世話役が運び、身の回りの世話もすべて彼女たちがやってくれる。彼女たちは皆「ワーカー」と呼ばれる階級で、働き蟻にあたる存在らしかった。


しかし、その生活に自由はなかった。部屋から一歩も出ることは許されず、常に「ソルジャー」と呼ばれる兵士階級の蟻人たちに監視されている。彼女たちは皆、最初に会った個体のように屈強で、一切の私語を交わさず、無機質な瞳で俺を見張っていた。

「アクト様、本日の食事でございます」

世話役の一人、エミリーが柔らかな物腰で食事を運んできた。彼女は他のワーカーより小柄で、物静かな印象の蟻人だ。


「なあ、エミリー。俺はいつまでここにいなきゃならないんだ?」


俺の問いに、エミリーは少し困ったように微笑んだ。


「アトク様は我らがコロニーの至宝。何一つ不自由のないよう、我らがお守りするのが務めです。すべては、来るべき『婚姻の儀』のためなのですから」


「こんいんの、ぎ?」


聞き慣れない言葉に、俺は眉をひそめた。

エミリーはうっとりとした表情で語り始めた。

この世界、この蟻人の社会は、一人の「女王」を頂点とした絶対的なヒエラルキーで成り立っている。女王だけが次世代の卵を産むことができ、他の者はすべて役割の決まったメス。社会を維持するワーカーと、コロニーを守るソルジャー。そして、その頂点に立つ女王が新たな命を産むために、唯一必要とされる存在。それが、オス。俺の役目だ。


「アクト様は、我らが若き女王陛下、エリザベス様と結ばれ、このアルヘンコロニーに次代の繁栄をもたらすのです。なんと誉れ高いお役目でしょう」

「……その、婚姻の儀が終わったら、俺はどうなるんだ?」


俺の心に、嫌な予感が影を落とす。地球の蟻の世界では、雄蟻は交尾を終えれば死ぬ。まさか、そんなはずは……。エミリーは、俺の問いに不思議そうな顔をした。それがまるで、世界の真理を問われたかのように。


オス様は、婚姻の儀にて全生命力を女王陛下に捧げ、子孫という形で永遠の命を得るのです。それは、雄として生まれた者にとって、最大の幸福であり、存在意義そのもの……」


その言葉は、俺の頭を鈍器で殴りつけたような衝撃を与えた。


つまり、俺は女王と交尾するためだけに生かされている道具。そして、その役目を終えたら、死ぬ。

それが、俺に与えられた運命。

豪華な部屋は、美しく飾られた牢獄に変わった。

手厚いもてなしは、屠殺場へ送られる家畜への餌やりに見えた。

世話役のワーカーたちが向ける崇拝の眼差しは、熟した果実を待つ飢えた獣のように粘つき、監視のソルジャーたちが放つ冷たい視線は、反逆者を八つ裂きにする瞬間を待ちわびているかのようだ。

冗談じゃない。

交通事故で死んで、ようやく新しい生を得たと思ったら、今度は子作りのためだけに死ぬ運命だと?

まだ見ぬ女王エリザベスとやらの甘美な肉体を貪り、快楽の果てに喰い殺されるためだけの存在?

ふざけるな。


この牢獄から逃げ出そうとすれば、あの屈強な兵士蟻ソルジャーどもに手足を引き千切られ、強酸でドロドロに溶かされるのがオチだろう。だが、この虚弱に見える身体の奥底で、まだ俺自身も知らない何かが疼いているのを感じる。地球の知識、そして、この世界のことわりを超えた未知の可能性が。


「……見てろよ」


誰にも聞こえない声で、俺は歪んだ笑みを浮かべた。

「お前たちの都合で死んでやるものか。女王の蜜を啜るのは俺だ。この蟻塚をお前たちの血と肉で染め上げてでも、俺は生き延びてやる。喰われる前に、この世界のすべてを喰らい尽くしてやる」



死の運命を宣告された男の瞳に、狂気と反逆の炎が静かに、しかし禍々しく燃え上がった。これは、脆弱なオスが、蟻の帝国をそのアギトで引き裂き、すべてを蹂躙する物語の序章に過ぎない。


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