夜の女
その女に初めて出会ったのは、雨の降る火曜日の夜だった。
時間は深夜零時過ぎ、場所は出町柳の駅前。
最後の電車が出たあとで、私はロータリーのベンチに腰を下ろし、コンビニの缶コーヒーを飲んでいた。
特に理由があったわけではない。家に帰りたくなかっただけだ。
あの部屋に戻るくらいなら、夜の冷気に濡れていた方がいくらかマシだった。
そのときだった。
不意に、湿った気配がこちらに近づいてきた。
私は顔を上げる。
女が立っていた。
黒い髪。
白いワンピース。
傘はさしていない。
髪も服も濡れていて、寒そうなはずなのに、彼女はにこやかだった。
「こんばんは」
「……こんばんは」
なぜか、私はそれだけで、背筋に氷を滑らせるような感覚を覚えた。
「今日は静かですね」
「ええ、まあ。雨だから」
「違いますよ。あなたが、静かなのです」
意味がわからなかった。
けれど、問い返すこともできなかった。
彼女は私の隣に座った。
濡れたままの身体で。
誰かがそうすれば迷惑がるようなことを、自然にやってのけた。
「よく、ここに来るんですか?」
「……たまに」
「ふふ。私は、毎週火曜日に来るのです。雨が降れば、必ず」
私は黙っていた。
彼女の視線の先を追ったが、そこにはただ、光の滲んだ信号と、遠ざかるタクシーの尾灯があるだけだった。
「あなたも、誰かを待ってるのですね」
「いや……違います。待たれてもいないし、迎えもしない」
「それは、ほんとうですか?」
ほんとうだった。
だがその瞬間、ふと、疑いが芽生えた。
本当に、誰も私を待っていないのか?
「私は、いつも誰かを待っています。
でも、迎えには行かないのです。
だって、それが“夜の女”の仕事ですから」
「夜の女?」
「そう。私は“夜”の中にしかいないのです。
朝になれば、私はもう、あなたの中にもいないでしょう」
そう言って、彼女は立ち上がった。
「名前は?」
私は思わず聞いていた。
「名前はありません。
夜の女は、名前を持たないのです。
あなたの中に少しだけ残る、それで十分です」
それだけ言って、彼女はすっと去っていった。
濡れた足音を、まるで空気の中に吸い込ませるようにして。
私はそのまま、しばらくベンチに座っていた。
気づけば、コーヒーはぬるくなり、雨脚は弱まっていた。
立ち上がって歩き出そうとしたとき、ベンチの脇に、小さな何かが落ちているのに気がついた。
白い折り紙だった。
小さな傘のかたちをしていた。
濡れていない、不思議な紙だった。
ポケットにそれを入れ、私は駅をあとにした。
帰る場所があることを、少しだけ思い出したからだ。