傘を刺さない君へ
その夜、私は明らかに機嫌が悪かった。
傘は不自然な角度で折れ、靴はしとどに濡れ、さらに論文の提出期限は今日の正午であったにも関わらず、私のWordファイルには「序論」の見出しすら書かれていなかった。
つまり私は、世界に対して「もういい加減にしてくれ」と怒鳴りたい気分だったわけである。
だが、そんな私の前に、彼女は現れた。
雨の中を、まるでそこだけ晴れているかのように、傘も差さず、濡れたままにこやかに近づいてくる女。
白いワンピースがぴったりと肌に貼り付き、髪は水を滴らせ、しかしその顔には微塵も困惑がない。
まるで、この濡れそぼった姿こそが礼装であるとでも言うように、堂々と、涼しげに、私に話しかけた。
「こんにちは。今日はいい雨ですね。」
これは明らかに正気の人間の挨拶ではない。
私の中の警報機がピリピリと鳴り響いた。
だが私は返してしまったのだ。
「……ええ、まあ、それなりに。」
人間、追い詰められると意外と冷静になるものである。
女はくすくすと笑った。
その笑いは風鈴の音にも似て、妙に耳に残った。
「あなた、最近、書けてないでしょう?」
ドキリとした。
彼女は確実に私の心の内を読んでいた。いや、それどころか、私の未保存のファイルの中身まで覗いていたのではないか。
「雨の日は、言葉が溶けやすいんです。拾いにきたらどうですか?」
彼女はそう言い残して、ふわりと背を向けた。
そして、傘も差さずにそのまま歩き出す。
水たまりの中を、音もなく。
気がつくと、私の手の中には古びた万年筆が握られていた。
私のものではない。
けれど、なぜか馴染む。
雨脚が強くなる。
彼女の姿は、もう見えない。
だが私は知っている。
来週の雨の夜、また彼女は現れる。
にこやかに、そして傘を差さずに