おやすみの口付け
夜の明かりが、頬を撫でた。
窓の外には、小さな公園。誰もいないベンチが、月の光に照らされている。
時計の針は、午前一時を指していた。
麻由はベッドの上に座ったまま、スマートフォンの画面を見つめていた。通知は来ていない。今日は来ないのかもしれない――そんな予感が、胸の奥をひやりと撫でる。
「今日も…おやすみ、言ってくれないのかな。」
独りごとのように呟いた声は、部屋の静寂に吸い込まれていった。
その声を聞く人はもういないのに、習慣のように、彼女は毎晩待っていた。
彼――湊は、半年前に旅立った。
突然だった。事故だった。最後の「おやすみ」のメッセージは、いつもと変わらない絵文字付きの短いものだったのに、それが最後になるなんて、誰も思わなかった。
それでも、麻由の中では時間が止まったままだった。
スマホのフォルダには、保存した音声メッセージが並んでいる。
「おやすみ」「いい夢みてね」「明日も頑張れ」
優しい声が、いくつも、まるで時を超えて今も彼女に触れてくるようだった。
ベッドサイドの照明がふっと揺れた。カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、淡く部屋に差し込む。
その光がまるで、頬を撫でる湊の指先のように思えた。
「……あなたがくれたおやすみの口付けの数だけ、夜は空けない。」
目を閉じた麻由は、そう呟いて、そっと枕に頬をうずめた。
夜が明けなければ、明日が来なければ――
彼といた夜が、まだ続いていると思えるから。
静かな、止まったままの夜。
そこにだけ、まだ彼がいる。