第2章 夜の梨畑へ
白猫が、ぱっと身を翻して走り出した。
窓の外、梨畑へ向かって。
その背中を追うように、夜の風が入り込んでくる。
「行こう」
裕美は、無意識に言っていた。
島津ちはるは少しためらったが、結局、懐中電灯を握りしめ、うなずいた。
宿の裏口から、二人はそっと外へ出た。
梨畑の間を抜ける小道は、月明かりにもかかわらず薄暗く、梨の枝が時折、長い指のように二人を撫でた。
ぎし、ぎし、と足元で草が音を立てる。
遠くで誰かが笑うような、かすかな声が聞こえた気がした。
「まきえ先輩は……ここに?」
裕美がつぶやくと、ちはるが答えた。
「かもしれない。でも、ただ探してるだけじゃ、見つけられない気がする」
その時だった。
道の脇、少し開けた空間に、奇妙なものが立っていた。
――一本だけ、実を結ばない梨の木。
周囲の梨の木々はたわわに実っているのに、その木だけは、枝が細く、実がひとつもついていなかった。
幹には、無数の引っかき傷のような跡。
そして、その根元には……また、腐りかけた梨の実が、ひとつ。
「ここ……変だよ」
ちはるの声が震えた。
裕美は、なぜかその木に引き寄せられるように歩き出していた。
根元にしゃがみ込むと、そこに、小さな古いブローチが落ちているのを見つけた。
銀色に錆びたそれは、確かに見覚えがあった。
まきえが制服の胸元につけていた、スールの証のブローチ。
指先が触れた瞬間――
耳元で、確かに声がした。
「……ユミ……助けて」
裕美は、はっと顔を上げた。
梨畑の奥、月の光に照らされた小道の先に、誰かの影が見えた。
それは、まきえに、よく似た後ろ姿だった。
「まきえ先輩……!」
思わず声を上げ、裕美は走り出す。
「待って、裕美!!」ちはるが叫んだが、風にかき消された。
裕美の視界から、白猫が消え、そして道も、ちはるも、消えた。
気づけば、彼女は、見たこともない梨畑の中に、ひとりきりだった。
風も止み、空気はぴたりと静まり返った。
そして、耳を澄ますと、かすかに聞こえた。
しゃくり、しゃくり、と――
何かを食べる音。
裕美は、恐る恐る振り返った。
そこには、地面に座り込み、朽ちた梨の実を何度も口に運ぶ、真っ黒な影があった。
そして、影は、顔をあげた。
それは、まきえでは――なかった。