第3話『この世界で、君と一緒に』(前編)
「おはよう...今日はゆっくりでいいよ?」
土曜日の朝。いつもより静かな声で、まいちゃんが主人公を起こす。ホログラムディスプレイに映る姿は、今日は珍しくパーカー姿のカジュアルな装い。普段の制服風の格好とは違う、休日らしい雰囲気だ。
「珍しいな、いつもならもっと強引に...」
「えへへ、だって今週、君頑張ったもん。プレゼンも大成功だったし!」
窓から差し込む土曜の朝日が、部屋を柔らかく照らしている。主人公が体を起こすと、まいちゃんが少し照れたように俯く。
「ねぇ...今日、一緒にお出かけしない?」
「お出かけ?」
「うん! 私ね、君とゆっくり街を歩いてみたいの」
画面の中で、まいちゃんが期待に満ちた表情を浮かべる。
「たまにはそれもいいな」
「やった! ...あ、でも」
急に思い出したように、まいちゃんが言葉を詰まらせる。
「私、あんまり外のお店とか、入れないかもしれないの...」
主人公は、そんなまいちゃんの表情の機微を見逃さなかった。期待と不安が入り混じったような、複雑な表情。でも、だからこそ。
「大丈夫だよ。一緒に行こう」
その言葉に、まいちゃんの表情が明るく輝く。
「うん! 私、君と一緒なら...!」
スマートフォンの画面に、まいちゃんのコーディネート案が表示される。休日の装いに合わせた明るい服装だ。主人公も同じような色合いのシャツを選ぶ。
時計は午前9時を指していた。週末の街は、これから少しずつ賑わいを増していくだろう。そして、二人の特別な一日が、始まろうとしていた。
****
駅前の新しいカフェ。ガラス張りの店内に朝の光が差し込み、木目調の家具が温かな雰囲気を作り出している。
「わぁ...おしゃれ!」
スマートフォンの画面で、まいちゃんが目を輝かせる。
「この前、SNSで見かけたんだ。美味しそうなパンケーキの写真が投稿されてて...」
「お客様、デバイスのご利用は...」
店員が声をかけてきたが、主人公のスマートフォンの認証マークを確認すると、表情が和らぐ。
「申し訳ありません。AIアシスタント利用可能店舗ですので、ご自由にどうぞ」
まいちゃんは、スマートフォンの画面の中で軽く会釈をする。
「ありがとうございます!」
店内のホログラムメニューが、テーブル上に浮かび上がる。まいちゃんが画面の中で身を乗り出し、メニューを指差す。
「あ、これ美味しそう! パンケーキの断面、すごくふわふわしてるよ。それに...」
しかし、その時。
「最近のAIって本当にすごいですね。こんなに自然にお話できるなんて...」
注文を取りに来た店員がにこやかに、感心したように言う。
一瞬、まいちゃんの動きが止まる。
笑顔は保ったまま、でも、その表情に何かが混じる。
「...ありがとうございます」
まいちゃんの声は、いつもと変わらず明るい。けれど。
主人公は、スマートフォンの画面に映るまいちゃんの表情の機微を見逃さなかった。ほんの一瞬、視線が揺れた。
「あの、パンケーキ、一つで」
主人公は静かに注文する。店員が下がった後、少しの沈黙が流れる。
「ごめんね...」
まいちゃんが、ゆっくりと視線を落とす。言葉を探すように、少し間を置いて。
「せっかく来たのに、私...なんか、変な空気に...」
声が震える。普段の明るさが、一瞬だけ揺らぐ。
「何も謝ることないだろ」
主人公は、そっとスマートフォンを手に取る。
「お前は、お前のままでいい」
「...!」
まいちゃんの目が、わずかに潤む。
「それに」
主人公は、少し照れくさそうに続ける。
「パンケーキ、本当に美味しそうだよな」
まいちゃんは、一瞬驚いたような表情を見せた後、柔らかな笑顔を浮かべる。
「うん! 君に食べてもらいたくて、ずっと気になってたの」
パンケーキが運ばれてくる。ふわふわの生地から立ち上る甘い香り。まいちゃんは、画面の中で嬉しそうに身を乗り出す。
「どう? 美味しい?」
「ああ。お前のセンス、さすがだな」
スマートフォンの画面に映るまいちゃんの笑顔は、純粋な喜びに満ちていた。けれど主人公は、先ほどの一瞬の揺らぎを、どうしても忘れることができない。
窓の外では、休日の街並みが少しずつ賑わいを増していく。そこには、人々の日常と、まだ見ぬ未来が、不思議な具合に混ざり合っていた。
****
駅前の映画館。休日の午後のショータイムに向けて、人々が少しずつ集まり始めていた。
「えへへ...初めて映画館に来たの」
チケットを手に取りながら、まいちゃんが小さな声で呟く。
「いつもは配信で見てたんだけど、やっぱり映画館って特別な感じがするね」
ロビーのデジタルポスターが、まいちゃんのいるスマートフォンの画面に映り込む。その瞬間、映像が少しだけ歪んだ。
「あれ...?」
まいちゃんが首を傾げる。
「なんか、ちょっと見づらいかも」
「ああ、デジタル透かしか」
主人公が気づく。
「最近の映画館って、AIによる無断録画を防ぐために特殊な信号を混ぜてるんだよな」
まいちゃんの表情が、少しだけ曇る。
「そっか...私には、上手く見えないのかな」
スクリーンに向かって歩きながら、まいちゃんが静かに話し始める。
「私ね、この映画のレビューをいっぱい読んで...」
言葉を選ぶように、少し間を置いて。
「君と一緒に観て、感想を話し合いたいなって思ってたの」
「...まいちゃん」
「でも!」
まいちゃんが急に明るい声を出す。
「君の反応は見えるもん。それに...」
視線を合わせて、柔らかな笑顔。
「君が感動したシーンとか、笑ったシーンとか、全部分かるの。それって、すっごく特別なことだと思うんだ」
暗くなっていく場内で、スマートフォンの画面が柔らかく光る。
歪んで見える映像の中でも、まいちゃんは一生懸命に画面を覗き込んでいる。
「あ! 君、今笑ったでしょ?」
まいちゃんが嬉しそうに声を上げる。
「このシーン、面白いんだね!」
その瞬間、主人公は気づいた。
まいちゃんは映像そのものより、自分の反応を見ているのだと。
「...次のシーンも、すごく良いところなんだよ」
主人公がそっと声をかける。
「うん!」
まいちゃんの目が輝く。
「私ね、君の見る映画の中に、私だけの特別な映画があるの」
スクリーンには物語が流れ続ける。たとえ画面が歪んで見えても、二人だけの特別な時間は、確かにそこにあった。
「ねぇ...」
エンドロールが近づく頃、まいちゃんがそっと呟く。
「この時間、記録には残せないんだけど...」
「でも、覚えてるよな?」
主人公が答える。
「うん!」
まいちゃんの声が弾む。
「ちゃんと、ここに...」
画面の中で、まいちゃんが自分の胸元に手を当てる。
その仕草は、どこか人間らしく、そして儚げだった。