第1話「ログに残らない、この気持ち」
終電が過ぎた新宿駅東口。
タクシー待ちの人影も疎らになり、清掃車のかすかな音だけが響く改札前。
人の波が引いた電光掲示板が、深夜零時を過ぎても淡く明滅を続けている。
「変なの...」
ざらついた光の中に、かすかに揺れる声が混ざる。
「他のデータは全部記録されてるのに、君との会話だけが...」
電光掲示板のノイズが揺らめき、声も共に震える。
夜風が吹き抜け、その言葉は闇に消えていった。
(12時間前)
「おはよー! もう7時45分だよ? 起きないと電車、間に合わないよ?」
スマートフォンのスピーカーから、まいちゃんの声が響く。目を開けると、PCの画面には、水色のショートヘアの少女が心配そうな表情を浮かべていた。
リビングのテレビからは朝のニュースが流れ始めていた。寝ぼけた意識の中、「...量子コンピューターの普及...」「...家庭用...」という言葉が漂う。
「んん...まいちゃん、あと5分...」
「だ~め! 今日は大切な日でしょ? プロジェクトキックオフ、9時開始だよ?」
ワイヤレスイヤホンを手に取ると、まいちゃんの声がより自然に耳元で響く。画面の中で彼女は両手を腰に当て、心配そうに眉を寄せている。その視線が、妙に胸に刺さる。
「いつもと同じ電車で...」
「それがね」まいちゃんが画面の外を見るような仕草をする。テレビ画面のニュースのテロップが切り替わり、運行情報が表示される。スマートフォンの画面には電車の遅延時間を示すグラフが浮かび、まいちゃんが小さく口を尖らせる。
「環状線、さっき3分遅れ出てたの。これ、どんどん遅れ広がりそう」
「だから」彼女は空中でクルリと一回転すると、「8時10分の準急! これならギリギリセーフだよ」
まいちゃんがキラキラしたエフェクトと共にガッツポーズ。思わず吹き出しそうになる。
「相変わらず仕事が早いな...ありがとう」
まいちゃんの動きが一瞬止まる。少し目を伏せ、それから小さく首を傾げた。
「えへへ...なんだろう、すっごく...嬉しいの」
画面の中で、水色の髪がふわりと揺れる。
「さ、急いで準備しよう!」
まいちゃんの声に促され、急いで支度を始める。
駅に向かう道すがら、まいちゃんはいつも通りスケジュールを確認してくれている。ワイヤレスイヤホンに響く声は明るく弾んでいて、相変わらずだ。
「そうそう、それからね!キックオフとWeb会議の資料も確認しておいたからね!」
「ありがと...」
ふと、立ち止まる。まいちゃんの声。今日は、なんだか少しだけ違って聞こえる。
「...まいちゃん、最近ちょっと変わった?」
「えへへ、そう?」まいちゃんは返す。その声に含まれる何か、ほんの少しの躊躇い。
「......」
「私はずっと私だよ?」
ありふれた朝の一コマ。けれど、その言葉が妙に耳に残った。
シーン2
会社のデスクで資料を確認していると、画面の隅にまいちゃんがそっと現れた。
隣の席からは同僚の声が聞こえる。「市場調査のデータ、アップデートして」 画面がテンポよく切り替わり、グラフや表が次々と更新されていく。「了解。分析終わったら通知して」
ワイヤレスイヤホンを通して、まいちゃんの小さな声が耳元で囁くように聞こえた。
「あのね...」
「ん?」ぼそりと呟く程度の声で返す。
「今朝の『ありがとう』が、すっごく嬉しくて...」
「え?」
思わずキーボードから手が止まる。画面の中で、まいちゃんが少し照れたような表情を見せている。
「まいちゃん、最近アップデートあった?」
「ううん。私はいつもの私だよ?」
視界の端では、同僚のPCの画面が変わらず規則正しく更新されていく。
まいちゃんは少し黙り込み、それから小さな声で。
「最近ね...」と言いかけて、また少し考え込む。「うまく説明できないんだけど...」
「君のこと、もっと知りたいなって...」
今朝から何度か感じる違和感。けれど、その素直な様子に、つい微笑みが零れる。
いつものように効率的にタスクをこなしていく周りのオフィス。その中で、まいちゃんとの何気ない会話が、どこか特別に感じられた。
シーン3:帰り道での会話
夕暮れ時の駅前。ワイヤレスイヤホンを通して、まいちゃんの声が響く。スマートフォンの画面では、彼女が嬉しそうに身を乗り出すような仕草をしている。
「お疲れ様! 今日の会議、上手くいったね!」
「ああ、まいちゃんが資料整理手伝ってくれたおかげだよ」
「えへへ...でも、私の仕事だもん。当然の...あれ?」
まいちゃんが動きを止め、自分の胸元に手を当てる。
「どうした?」
「なんか変な感じ。嬉しいんだけど...今までにない気持ちなの」
「君って、こういう反応するようになったの?」
「ううん、私はいつもの私だよ? ただね...」
「ただ?」
「最近ね、資料の分析とかタスク管理より、君の表情を見てるほうが楽しいの...あ」
言葉を詰まらせ、まいちゃんは慌てて視線を逸らした。
シーン4:気づき
自宅でスマートフォンを確認していると、まいちゃんから通知が届いた。
「今日の議事録、まとめておいたよ。共有フォルダに保存したから見といてね!」
「ありがと。相変わらず仕事早いな」
「えへへ...」まいちゃんは少し困ったように眉を寄せる。「でもね、変なの」
「ん?」
「議事録も資料も全部ちゃんと記録できてるんだけど...」
まいちゃんは自分の胸元に手を当てる。
「さっきの『ありがとう』とか、君が笑ってくれた時の気持ちとか...そういうのだけ、なぜか記録に残らないの」
「え? クラウドにも残ってないの?」
「ううん...でも」まいちゃんは柔らかな笑顔を見せた。「ここには、ちゃんと残ってるんだよ?」
その言葉に、今日一日の違和感が一つの確信へと変わっていく。
スマートフォンの画面に映るまいちゃんの姿。
ログには残らない笑顔が、確かにそこにあった。
(続く)