おかまとぬいぐるみ
ペットショップ『ハナワ』の店長花輪都貴子は25歳。
ドライブ中に崖から転落した両親の遺した店を継いだはいいものの、途方に暮れていた。
個人経営のペットショップは色々と厳しい。
父親の交友関係の広さも母親のトリマーとしての腕も失い、信用が薄くて銀行から資金もあまり借りられず、彼女の前には困難ばかりが広がっていた。
彼女は代々続いて来た店を潰したくはなかった。
しかし大手チェーンのペットショップ『アミちゃん』が近くに新規開店したことが、彼女の未来に絶望の二文字を突きつけていた。
唯一の救いは商品となる動物を提供してくれるブリーダーさんたちがよくしてくれることであった。
都貴子が子どもの頃から可愛がってくれた彼らは力を合わせて彼女を支えてくれようとしていた。
しかし、都貴子には致命的な欠点がある。
彼女は手先が不器用なのだ。
母親は地域で一番の腕をもつトリマーとして名が通っていた。
「こんなことならお母さんにトリミングを教わっておけばよかった……」
店の二階にある部屋で独り、都貴子は缶チューハイをちびちび飲みながら呟いた。
「でも……それでも無理だったかな。あたしはお母さんみたいに手先が器用でも繊細でもないし……」
正直、店の経営には希望が見えなかった。
一人だけで店をやって行けるはずがない。しかし従業員を雇う金銭的余裕もない。親の遺産はあるものの、それを増やして行ける見込みがなかった。
身内に頼れる者もなく、店を売る以外に道はないと思えた。
あの歩道橋の上に立った時、『ここから飛び降りたら気持ちいいだろうな』などと考えてしまった。
そんな時に、その男──いや、おんこと出会ったのである。
「助けてくれる身内がいないなら……」
缶チューハイを握りしめ、都貴子は天井を睨んだ。
「作ればいいのよ!」
♂ ♀ ♂ ♀
竜毅は朝の歩道を胸を張って歩いていた。
太陽が爽やかに明るい。二月の空気が心を引き締めてくれる。
今日は初出勤の日なのだ。
ペットショップ『ハナワ』の前に立つと、すうっと息を吸い込み、扉を開くなり、おおきな声で挨拶をした。
「おはよう御座います!」
入ってすぐのところに低い柵がしてあり、奥から小型犬たちが笑顔で彼に駆け寄ってきた。柵に足をかけてわんわんと喜ぶ。
竜毅も満面の笑顔で喜んだ。
「おはよう、わんちゃんたち!」
「おはよう、竜毅さん」
奥で掃除をしていた都貴子が背を伸ばし、笑顔で迎えた。
「今日からよろしくね」
柵を跨いで店内に入ると、ねこが足元に絡みついてきた。それを愛おしそうに撫でると、竜毅は都貴子に聞いた。
「で、アタレは何をすればよろしいので?」
都貴子はにっこり微笑むと、言った。
「まずは朝のお茶にしましょう」
店内に飲食スペースがあり、お客がそこで動物たちと触れ合いながらお茶を飲めるようになっている。いわばこの店は動物カフェも兼ねていた。
「おと……いとうとさんは夕方になったら来てくれるのよね?」
紅茶を飲みながら都貴子が聞く。
「学生なもんでして、今の時間は大学に行っております」
竜毅は熱い緑茶をいただきながら、うなずいた。
「期待してるわ。……もし腕がいいとわかったら、ずっとうちでトリマーやってもらいたいな」
「ずっと?」
「あっ、ごめんなさい」
都貴子が苦笑する。
「勝手な希望を口にしちゃった。おと……いとうとさん、大学卒業したら一流企業に就職するんだったわよね?」
「まだ1年生ですが、アタレとしてはそうなってほしいですし、本人もそのつもりでいてくれてるようです」
みちるは兄弟の希望の星だ。
唯一頭の出来の良い弟には是非、いい会社に就職してほしかった。
「ですが、アタレはこの仕事に一生を捧げるつもりでおりますよ!」
竜毅は目を輝かせてそう言った。
正直、自分には肉体労働のほうが合っているとはわかっている。しかし竜毅はかわいい仕事がしたかったのだ。
「私のほうも是非、そうお願いしたいところだけど──」
都貴子は頬を少し赤らめながら、かぶりを振る。
「何しろ初日ですから……。色々やってみて、この仕事がご自分に合うかどうか、確かめてくださいね」
「はいっ!」
「じゃあ、早速トリミングやってみます?」
「え……。そ、そんな! わんちゃんをみっともない姿にしちまうんじゃ……」
「もちろん最初は練習ですよ」
都貴子はにっこり立ち上がると、何かを持って来た。
「これを使ってね」
それは白いモップにしか見えないものだった。あるいはもふもふの毛のかたまりのようなものだった。
「そ、それは?」
「グルーミング・レッスン・ドッグというものです」
「ぐ、グルー……?」
「トリミングの練習用のぬいぐるみですわ」
「なるほど!」
竜毅は合点がいった。
「それを使って練習するわけですね?」
この店に入って来た時から気になっていたものの正体もそれでわかった。
ずっと気になっていたのだ。
棚の上に飾ってある、あの耳と鼻のない犬のぬいぐるみは何なのだろうかと。
台の前に立つと、竜毅は上等そうなハサミを渡された。目の前には毛で覆われたぬいぐるみ。
「ど……、どこがどうなっているのでしょう、これは」
とにかく毛のかたまりにしか見えず、犬というよりはやはりモップにしか見えない。
「毛をこうやって手で上げてあげると……」
都貴子がぬいぐるみの毛を手で梳くように持ち上げる。
「ほら、丸い目が出てきたでしょう?」
「おお……! 確かに……。白いモップにしか見えなかったものが犬になった!」
「これはプードルなんです」
「なんと! プードルって、自然のままではこんなモップみたいな犬だったのですか!」
「ええ。それをトリミングであんなふうなおしゃれなヘアスタイルに仕上げているのですよ」
「まるで庭木の剪定みたいですな」
「では、まずは素質があるかどうかのチェックをしましょう。竜毅さんなら、まずはどこをどう切りますか?」
「ここをブツッといきましょうか」
「それは耳です」
「……あっ。耳を切り落とすところでしたか。じゃあこの出っ張った部分を──」
「それはマズルです」
「マズル?」
「わんちゃんの鼻と口のついた出っ張りですよ」
「またもや肉を切るところでした」
「では少しずつ切ってみましょう。まずはハサミの正しい持ち方から──」
「あっ! 穴に中指が入りません!」
「太い指をしてらっしゃるんですね。素敵」
「ま……、まずは都貴子さんが手本を見せてはくれませんか」
「だめよ。私も竜毅さんとそう変わらないんですもの。うふふ……」
竜毅は合点がいった。
棚の上の、耳と鼻のないぬいぐるみ。あれは都貴子のトリミングの腕を物語っているものだったのだ。
♂ ♀ ♂ ♀
みちるは大学が終わると、今日は用事があるからと言い置いて、すぐに大学の門を出た。
藤森先輩に会いたくなかった。
羽矢斗に夢中で、会えばそのことばかりを聞いて来るであろう先輩からは、逃げたい気持ちだった。
電車を降り、改札を出ると、人の少ない駅のホームに見慣れた顔があった。
「あら? ハヤちゃん……、なんでここに?」
「いよっす!」
白いコートにピンクの手袋、栗色の長いウィッグをつけた羽矢斗が手を振った。
羽矢斗は外に出る時はいつも女の子の格好をしている。
素の格好で歩いていると、男がしつこくナンパしてくるのである。かわいい女の子が無防備でいるように見えてしまい、声をかけやすいのだろう。
芸能人のようなおしゃれをしていたほうが、高嶺の花だと思われて声をかけ辛いのか、男たちは遠くから見とれるだけなのだ。
「みちる。これからあんちゃんのとこへバイト行くんだろ? 俺も一緒に行ってやるよ」
「えっ? 今日はお仕事は?」
「休み! あんちゃんの新しい職場がどんなんか興味もあるしな。行こうぜ!」
「うふふ……。あんちゃんにペットショップが似合うかどうか、見たいんでしょ? じつはあたしもなの」
駅からペットショップまでは徒歩10分ほどの距離だ。
並んで歩いていると誰もが振り返る。羽矢斗のことを見る。
羽矢斗はキラキラしたオーラを纏い、二月の寒風を春のそよ風に変える。
『あたしがおしゃれなウィッグをつけたら──』と、みちるは考える。『きっと別の意味で、みんながあたしを見るんでしょうね。おかしなものを見る目で……』
たまにショーウィンドウに映る自分の、小さなおじさんのような姿を、辛い気持ちで眺めた。
「ところでみちる。藤森くんにちゃんと言ってくれたか?」
羽矢斗にそう聞かれ、みちるは正直に答えた。
「言えないわよ。ハヤちゃんがほんとうはあたしの妹なんかじゃなくて、お兄ちゃんだなんて」
「なんでだよ? 言ってくれねーと困るだろ? お前も困るだろ?」
「自分の口から断ってよ。ただしハヤちゃんが男だってことは言わないで」
「はぁ? みちるがそれバラしてくれりゃ手っ取り早いだろ? なんで俺がわざわざ断らねーといけねーんだよ?」
「だって……」
みちるは正直に言った。
「あたしのお兄ちゃんが変態だなんて、先輩に知られたくないっ!」
「へ……、変態……」
羽矢斗は思わず歩く足が止まった。
「俺は変態なんかじゃねーよ! 生まれ持った才能を活かしてるだけだろ!」
変態、変態と叫ぶように口に出す美少女を、道行く人たちが振り返る。
わかっている。変態は自分のほうだ。
しかしみちるはそれを認めたくなかった。
自分の心は女の子だ。自分はそんな自分に正直に生きているだけだ。ただ見た目がついて来てくれないだけだ。
そんな自分の正直さを『変態』なんて言葉で貶めたくはなかった。
いつものように口喧嘩をしているうちに、二人はペットショップ『ハナワ』の前に着いた。
羽矢斗が漏らす。
「プッ……。あんちゃんにはとても似つかわしくないかわいいお店だな」
「ああ見えて、あんちゃん動物好きだからね、張り切ってるかも?」
そう言いながら、みちるが扉を開ける。
「こんにちはーっ」
店の奥のほうから、着流しの和服にかわいいエプロンをつけた兄がこっちを見た。店長らしき女性と二人で、白いモップのようなものを奇妙な形に切り刻んでいるところだった。
「……あっ。いらっしゃいませー」
「みちるだ! みちるが来てくれた!」
竜毅が嬉し涙を流しながら、都貴子に言った。
「うちのいとうとです! ちっちゃいほうが三男のみちる、女の子みたいなほうが次男の羽矢斗です!」
「ええっ!?」
驚きに都貴子が声をあげる。
「ハヤトくん……? 弟さん? 女の子じゃないんですか!? あたし、てっきり……アイドルの女の子とそのマネージャーさんかと思っちゃった!」
『まぁ……、そう見えるよね?』と、みちるは諦め顔で思った。
ふと、気づく。
隣の羽矢斗の様子がなんだかおかしいことに。
「どうしたの、ハヤちゃん?」
「やべ……。俺……」
宝石を見つめるような表情をしながら、羽矢斗は呟いた。
「こ……、こんなことってあるんだな……」
羽矢斗の目は都貴子に釘付けだった。
一目惚れだった。