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辛いよ! 人事さん  作者: 伊都川ハヤト
4/13

総務さんは憂鬱


  このフロアを利用しているのは、弊社社員だけではありません。

  ゴミは分別しましょう。

  共有スペースには、私物を置かないようにしましょう。

  エレベーターやトイレでの私語は慎みましょう。




 雨の多い季節は、憂鬱。雨の日は髪型が崩れるし、眼鏡に細かな水滴が付くのも好きじゃない。この季節に結婚すると幸せになれる……なんて言うけれど、そんな言葉の発祥地と日本の気候は違いすぎるのではないかしら。


 私(霞ヶ浦リツコと申します)は、ついに耐え切れなくなって手元の三十センチ定規を手に席を立った。

 フロアに入ってすぐ、扉の脇に貼られた社員向けのポスターが、何度見ても右斜めに傾いている。気になる。今朝から、気になって仕方がない。

 

 ドアの脇に定規を当てて、水平を取る。やはり、ポスターは僅かに傾いていた。先輩が貼ってくれた手前、言い出せなかったのだけれど、ずっと気になっていたのだ。


 皆がこちらに注目していないことを確認してから、私は素早く、正確にポスターの角度を修正した。

 人の視線を集める高さに、ピンッと貼られたポスター。マナー向上を訴える内容なのだから、ポスターそれ自体も美しく貼られるべきだ……と、私は思う。


 私は、会社で総務の仕事をしている。

「総務って何してんの?」と聞かれることもあるけれど、基本的には企業の「何でも屋さん」という感じ。それこそ、備品や施設の管理から、株主総会の運営まで。


 一仕事終えたような達成感で席へ向かう途中、私はこっそり、人事部の島が集まっている方へ視線を送った。沢山並ぶデスクの、その向こう。窓側の、一番奥の島。そこでは労務を担当する人達が、パソコンを親の仇のように睨みつけながら仕事をしている。

 

 私は出来るだけ視線を注ぎ過ぎないように注意を払いながら、労務の席に彼が居ないことを確認して自席へ戻った。彼の居ないあそこに、特に用はない。


「リツコ先輩、ご相談したいです」


 席に戻ると、私は直ぐに後輩のマシューに声を掛けられた。

 マシューは見た目と名前だけ見れば外国人のようだけれど、生まれも育ちも北海道だ。外国語は少し話せるけれど、読み書きは苦手だそう。


 三つ年下のマシューは、この春に異動してきたばかり。仕事を覚えようとやる気に満ちている彼は、毎日のように沢山の質問や相談を投げてくれる。


 そんなマシューが言うには、貸し出し用のプロジェクターが壊れた状態で返却されていたという。


「管理番号は……三番ね。最後の利用者は?」


「先週の水曜日に、人事部が。でも、壊れているのが分かったのは、今朝なんですよ。事業部から連絡がありました」

 

 事業部から相当失礼な物言いをされたのか、マシューは思い出して憤っている。


「先ずは、履歴が残っている人事部に確認をしましょう。人事の……名前は?」


「田中さんです」


「そう。田中さんね」


 私は、期待がハズレて少しガッカリしたのだけれど、それを顔には出さないように努めた。


「それじゃ、私が聞いてくる」


「え! メールじゃなくてですか?」


「そうね。……急いだほうが、いいと思って」


「分かりました。僕も行きます」


 私は気にしないように伝えたのだけれど、それでもマシューは一緒に行くと言う。

 ここで拒否するのもおかしな事なので、私はマシューを連れだって人事部の席へ向かった。

 

「お忙しいところ、失礼します」


 私が声を掛けると、労務の島に居た三人の人物がこちらへ顔を向けた。鼻をかんでいた女性と、デスクに伏していた女性。それから、なんとも形容しがたいような、特徴のない男性だ。


「はい。なにか御用ですか?」

 

 特に特徴のない男性が立ち上がり、私とマシューの元へ駆け寄る。たった数歩の距離なのだけれど、傍へやって来て話を聞こうという態度は素敵だと思った。


「田中さん……ですよね? 先週の備品貸し出しの件で、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?」


 目の前の彼が首から下げている社員証には、田中正直とある。ご両親のお人柄が伝わるような、とても良いお名前だ。


 田中は驚いたような顔をして、なにか不備があったかと尋ねた。

 

「実はですね、壊れた状態で返却されておりまして」


「ええ!?」


 マシューの言葉を耳にして、田中は全く覚えがない様子をみせた。彼が言うには、プロジェクターを使用している最中に特におかしな様子はなかったという。また、返却時にぶつけたり、落としたということもなかった、と。


 私が見る限り、田中には嘘を言っている様子はなかった。


「リースですよね? それ、困りますね……」


「備品全般に言えることなんですが、使い方が粗い人が多いです」


 田中とマシューは同じ顔をして、互いに「大変ですよね」や「本当、お疲れさまです」といった労いの言葉を掛け合っている。彼らは、なにか共感しあっているようだった。

 

「お疲れっす」


 声を聞いて、私は思わず跳び上がりそうになった。

 慌てて振り向くと、そこには彼が、赤井さんが立っている。


 赤井さんはいつものように黒のスラックスに白シャツ姿で、今日のネクタイは珍しくブラウン系。彼はいつもガサツそうなフリをしているけれど、ネクタイは乱さない。そんなギャップが、好きすぎる……!


「あ、先輩。この間のプロジェクター、破損した状態で返却されたそうなんですよ」


「破損? なに?」


 あからさまに面倒そうな表情をしながら、赤井さんは田中の傍へ歩いていく。

 私はプロジェクターについて説明をしようとしたけれど、緊張で声が出ず、仕方なくマシューに目で指示した。


 マシューは、本体のプラスチック部分にヒビが入っている事と、電源が入らないことを伝える。


「そんな状態なら、気付かないはずないだろ。返却の時は、俺も一緒に居たし」


 赤井さんの言葉に、田中は何度も頷いている。

 

(……なにそれ? ずるくない?)


 思わず口にしそうになったそれを飲み込んで、私は唇を噛み締めた。

 

 田中とマシューが首を傾げているけれど、今の私にはその仕草にさえ腹が立つ。


 この、田中という男! 気になっていたけれど、赤井さんと距離が近いのではないかしら? 

 この男は、私の赤井さんと一緒に、あの狭い機材室でなにをしていたというの……?


「履歴上は、最後の利用者が人事部の田中さんでしたので、確認させていただきました。……恐らく、申請をせずに利用した方が居るのでしょうね」


 疑いが晴れたことを告げると、田中は子犬のような顔をして喜んでみせた。さらに彼は、「解決するといいですね」と、まるでこちらを気遣うような言葉まで寄こした。


 私は赤井さんともう少しお話ししたかったけれど、彼はデスクの上でノートを広げて、パソコンに表示されたなにか(見たいのに見えないの!)を忙しく確認している。


 私は仕方なく、田中と労務のメンバーに頭を下げてから自席に戻った。


「鳥……」

 

「とり? います?」


 自席に戻った後。思わず口にした独り言を聞かれてしまい、私は慌ててお茶を呑んで誤魔化した。脳裏には、つい先程、赤井さんが手にしていたボールペンが焼きついている。


「鳥がお好きなんですか?」


 マシューが尋ねてきたけれど、私は「別に」とだけ答えた。

 

 赤井さんのボールペンは、赤のペン軸に銀色の鳥が描かれていたように思う。

 私は少し考えてから、傍にあったメモ帳に鳥の絵を描いて、それをマシューに見せた。


「こういう鳥、分かる?」


「うわあ。先輩、絵が上手ですね」


「そういうのは、結構ですから。これ、なんの鳥か分かる?」


 マシューが他に情報はないかと尋ねたので、私は印象的だった「赤」という色についても話した。

 

 赤。

 赤井さんだから?

 ……なんて。


「それ……リバプールですかね? このマークと似ていません?」


 マシューがこちらへ向けてきた彼のノートパソコンには、海外のサッカーチームのホームページが表示されている。そこには確かに、あの鳥が描かれていた。


「サッカー……」


 赤井さんがサッカー好きなのは最早常識なのだけれど、海外のチームを応援していることは知らなかった。新しい情報だ。


 私はスケジュール帳の隅に「リバプール」の文字を書き留めて、帰宅後に調べることを決意した。正直、サッカーは全く分からない。けれど、分からないからこそ、それを利用して会話に持ち込むことも出来るはず。


 私はプロジェクターのリース元へ連絡するための文面を考えながら、十和田マネジャー(私の上司です)にも報告を行うため、彼女のスケジュールを確認した。幸い、今日の午後は空いていて、急ぎの用事もない様子。気の重い報告には、ベストタイミングだ。


「リツコ先輩は、スポーツってお好きですか?」


「野球」


 私は手短に答えて、十和田マネジャーにミーティング出来ないかチャットを送る。

 マネジャーからは直ぐに連絡があり、私は午後一で一番小さな会議室を押さえた。上手くいけば、今日は定時上がりも夢ではなさそう。


「お好きなチームとか……」


「オリックス」


 私の父親は、イ○ローの大ファン。彼の引退試合を家族で観に行った時、私は父が声を上げて泣くところを初めてみた。

 ……娘としては、父の涙は、私の結婚式まで取っておいて欲しかったのだけれど。


「オリックス……あ、バッファローズですね! 知ってます。……それじゃ、今度、よかったら……」


「……マシュー。物事は、正しくあるべきだと思わない?」


「は、はい」


 マシューは、何を咎められたか理解できていない様子。

 私は、呆れずにはいられない。


「『バッファローズ』じゃない。『バファローズ』よ。覚えておいて」


 私はマシューに大切なことを伝えると、雑談を終えて仕事に集中することにした。本日のタスクは順調に消化出来ているけれど、可能な限り早く終わらせて定時に帰宅しなければ。


 今日は、日用品の買出しの日。ストックが切れ掛かっている物を補充したら、その後は自分へのご褒美タイム。買い置きの鳥モモと長ネギで焼き鳥を作って、どて焼きと枝豆とビールを楽しみながら、動画配信サイトでスポーツニュースを観漁るの。


 普段は贔屓の球団とMLB関連しか観ないけれど、今日は赤井さんが好きだというリバプールなるものについても調べなくてはいけない。サッカーのルールは分からないけれど、野球より複雑ということはないはず。


「……忙しくなりそうね」


 私が呟くと、何故かマシューも頷いた。


 ふと目を向ければ、外はまた雨が降り出している。


 雨の多いこの季節は、憂鬱なことが多い。(交流戦が雨で流れたり、ね)

 リース品の修理に関する話は考えただけで憂鬱だし、したくもない犯人捜しをして始末書を提出してもらうのは、もっと憂鬱。


 備品の補充や管理に始まり、入社式などの社内イベントの企画、運営。会場の手配や日程調整に、株主総会では議事録の作成なども行う。そんな多岐に渡る総務の職務内容を雑用と言う人もいるけれど、その雑用だって、誰かがしなくては会社が回らない大切なもの。


 むしろ、必要な仕事なのか疑問に思われているということは、それくらい自然に、私たちの仕事が上手く回っているということなのではないかしら――?


 憂鬱なこともあるけれど、落ち込まず、気負い過ぎず、正確に。


「とにかく、私たちのやるべきことをやりましょう」


 私の言葉に、マシューは笑顔で頷いた。

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