退職代行と人事さん
今では転職が当たり前の時代になりましたね。
皆さんは、退職を上司に報告する時、緊張しますか?
引き留められるのも辛いし、理不尽なことを言われても困るし、嫌だなあと思う方も多いはず。
「まーーーーーーた、来たよ! 退職代行!」
赤井先輩の呆れたような声を聞いて、僕(田中正直といいます)は思わず苦笑した。
新緑の眩しいこの季節。風は爽やかだけれど、社内では穏やかでない会話が交わされることも少なくない。
「最近、ほーんと増えたわ。とんと増えたわ」
マスクで顔の半分を隠し、花粉対策の透明なゴーグルで目元を覆った緑川さんが、箱ティッシュを膝に置いて鼻をかんでいる。彼女は一年の大半を何らかのアレルギー性鼻炎で苦しんでいて、人前に素顔を晒すことは殆どない。
赤井先輩と同じメールの内容を確認しながら、僕は堪えきれずに溜息を漏らしてしまう。
退職代行は、弁護士から連絡がくることもあれば、退職代行サービスを行っている会社から連絡がくることもある。どちらの場合であっても、メールに書かれているのは一方的な要求のみだ。
あくまで僕個人の気持ちを素直に言うなら、本人にメリットがあるなら良いサービスだと思う。精神的にギリギリなら引継ぎも出来ないだろうし、退職関係書類の提出は郵送でもメール添付でもいい。(そもそも、電子契約サービスを利用している会社も増えているよね)
無理矢理会社に顔を出すくらいなら、その時間で次へ向けてリフレッシュした方が合理的だ。心と体の健康を考えても、その方が良いんじゃないだろうか。
勿論、こんなことを公言する訳にはいかない。現場が人員調整で大変な思いをすることは事実だし、採用にかかったコストを考えると笑えないことの方が多い。
だから、本人にメリットがあるなら退職代行を利用すればいいというのは、心の中でだけこっそり思うことにしている。
でも、どうせ利用するなら、業者は選んだほうがいいと思う……。
「貸与品、全部入っているといいんですが……」
僕が不安に思い呟くと、赤井先輩も頷いた。
以前にも、退職代行を利用して辞めた社員がいる。彼は会社からの貸与品と退職届、離職票の送付先などが書かれたメモを宅急便で送ってきたのだが、そこには会社支給のスマートフォンと社員証が入っていなかった。
退職代行会社を利用したということは、退職に関する話し合いには応じないという意思表示だと考えている。だから僕らは、直接本人に連絡することはない。でも退職代行会社によっては、結局、本人とのやり取りが発生してしまう場合がある。
以前のケースでは、僕は退職代行会社に連絡をして、退職代行会社から退職者本人に「スマートフォンと社員証を郵送するよう」伝言を頼んだ。
だけど、退職代行会社からの返答は「NO」だった。退職代行会社は全て返却するように伝えていて、本人の過失によるミスまでは責任を負いませんよと、そういうことらしい。余りの無責任さに、僕らはハズレ業者を引いてしまった退職者に同情したほどだ。
結局、僕らは退職者本人に連絡を取ることになり、幾度かメールでやり取りをして、貸与品を全て回収した。それに至るまでの双方にとって気まずい経緯については、とても思い出したくはない……。
「こういうの、三万くらいかかるんだって」
短い言葉の合間にも、緑川さんは鼻をかんでいる。フロア全体に貼られたカーペットは、酷いアレルギー体質の彼女にとっては大敵だそうだ。誰かが歩く度に、花粉やハウスダストが舞い上がるらしい。
「三万……! 焼肉行って、映画観て、残りは貯金出来ますね」
「全額、天皇賞にぶち込むだろ」
多分、赤井先輩は、競馬のことを言っている。
なんにせよ、三万円は大金だ。
赤井先輩は小さく「こっちに連絡くれれば」と呟いた。その先を言わなかったのは、立場があるからだろう。
僕は不意に前の職場のことを思い出して、掌にグッショリ掻いた汗をハンカチで拭った。三万で辞められるなら安いと思えるような職場があることは、事実だ。
「そういえば、経理の長良さんて覚えてる?」
「全然」
「二年前に退職した私の同期なんだけど、カムバックするんだって。こないだ連絡きて、呑みに行く約束しちゃった」
そう言うと、緑川さんは嬉しそうに目を細めた。彼女と元同期の長良さんは、新卒で入社してからずっと上司の愚痴を言い合う吞み仲間らしい。
カムバック制度――退職した元社員を再雇用する制度を設けた時は、正直、戻ってくる人なんているのかと懐疑的だった。育児や介護などの理由で離職した人は別として、辞めるということは、嫌になったからだと思っていたから。
でも今回の緑川さんの元同僚のように、この制度を利用して戻ってくる人は意外と多い。職種を変えて再挑戦する人もいるけれど、全く同じ職種、同じ勤務地で戻ってくる人もいる。
彼らに共通しているのは、馴染みがとても早いということじゃないだろうか。多少のブランクはあっても、職場が既に「知っている会社」であることは、色々なハードルを下げるのだと思う。
「もし僕が退職して、もう一回……」
僕は会社であることも忘れて、うっかり悪い冗談を口にしてしまった。
「あっと……失礼しました……」
ヘラヘラと笑っていた自分が恥ずかしくなって、僕はノートパソコンの陰に隠れるように身を屈める。
すると、キャスター付きの椅子をガーッと滑らせて、デスクの角でうまくコーナリングを決めながら、赤井先輩が近付いてきた。
舞い上がった埃や花粉で、緑川さんがクシャミをしている。
「お前さ」
「あの、僕、スミマセン……」
「お前、俺より先に辞められると思うなよ……?」
赤井先輩の目は、血走っている。勿論、彼のそれはアレルギーのためではない。
赤井先輩の顔に、僕は手元のタスクの山がダブって見えたような気がした。
僕は運良く比較的ホワイトといえる会社に転職できたし、仕事内容も嫌いじゃない。人間関係にも恵まれて、これで不満を言ったら罰が当たると思う。
ただ、それにしたって、業務量の多さだけは……。
「この会社はいいぞ~。他所と違って、何からなにまで覚えられる」
「一人当たりの業務量がおかしいだけですよね……?」
「定期昇給もあるし、このご時世にボーナスも出る」
「それは、ありがたいです。……額は、しょっぱいですけど」
「あと、あれだ。……なんか、色々いいことがある」
先輩は疲れ過ぎていて、早々に考えることを放棄したようだった。単に、面倒になったのかもしれない。
「まあ。とにかく、やろうぜ」
バシンッと僕の背中を叩いて、赤井先輩は椅子を引き摺りながら自分のデスクへ戻っていった。もの凄く不器用だけれど、先輩なりに僕を気に掛けてくれているのだろう。
仕事の内容もそうだけれど、やっぱり職場の人間関係が合う、合わないの方が僕には大きい。例え業務量や業務内容が簡単だと思える職場であっても、人間関係が最悪な場所は長続きしない。誰だって、そうじゃないだろうか。
退職代行会社から届いたメールの内容を再び確認して、僕はそこに書かれた元社員の名前を見つめた。
次はミーティングだと、赤井先輩の声。
僕は慌てて準備をして、赤井先輩の背中を追いかける。
人との出会いが人生を変えるように、会社との出会いも人生を変えるんだよな……と、僕はなんだか、そんなことを思った。
おわり