辛いよ! 人事さん(前)
色んな人が居て、色んな考え方がある。
働くことは大変で、報われないことだって多い。
楽しい事ばかりじゃないけれど、どうせ働くのなら前を向いていきたい。
受付のあるフロア。僕(田中正直です)は壁に身を隠しながら、受付の傍にある暖簾のかかったスペースに目を向けた。その中は冷蔵庫や給水機などが置かれていて、お茶出しを準備するための場所になっている。
そのスペースから、他の人には見えないように、さり気なく顔を出す女性がいた。彼女は、総務でアシスタントをしている田沢さんだ。
田沢さんは僕に気付くと、慣れた様子でさり気なく視線をソファへ。その先には、面接や商談のためにいらしている方々に交じって、明らかに浮いている女性が一人。
僕は一度深呼吸をして気持ちを切り替えてから、その女性に歩み寄った。
「H様、大変お待たせ致しました。こちらへどうぞ」
「……はい」
顔を上げる女性。クマを隠せていない目元に、ギョロリと睨むような仕草。唇はカサカサで、顔は全体的に少し腫れている。眩しいくらいに白いシャツと張りのある素材の紺色のスカートが、この世の終わりを見たような彼女の表情とは余りにかけ離れた印象だ。
僕は出来るだけ感情を表に出さないように努めて、直ぐにHさんを小さな会議室に案内した。
会議室は、基本的に外から見えるようになっている。ガラスの真ん中辺りがすりガラスになっているのは、会議室の椅子に座った時に、顔や机の様子が分からないようにするためだ。
「……御社は、不道徳者の肩を持つおつもりでしょうか? それが御社の方針ですか? 御社では、不倫をした人間を庇うのですか?」
会議室の机を挟んで向き合うなり、Hさんは机上にスマートフォンを置いて強い口調でそう言った。彼女が落ち着いて話そうと努力している様子は明らかで、時々唇をギュウギュウ噛み締めて、言葉を必死で選んでいる。
社内恋愛は、よくあることだ。そして、社内不倫も――。
「H様。事前にメールでご連絡頂いた内容につきましては、人事部担当者に共有済みとなります。現在は、状況の確……」
「ですから! ……すみません。ですから、私の夫と御社の営業部のMさんが不倫関係にあるのは、事実です。……事実……。それに関して、御社はどのように対応されますか? 懲戒解雇ですか?」
「現時点で私の口からは……」
「あの!」
Hさんは、自分の声の大きさに驚いた様子で、一度ハッと目を見開いた。
机上のスマートフォンは、録音用だろう。でも、彼女のシャツの胸元には、仕事中でもないのに不自然に刺さっているボールペンがある。多分、それも録音用だ。保険を掛けて、複数用意したのかもしれない。
何度も言葉を呑みこんで、それから一生懸命、言葉を紡ぐ。その様子は、夫の会社に乗り込んで人事部を呼び出すような人物像とは、少し印象が違うように思った。それだけ、彼女は真剣に闘っているのだ。
「いつ……何時頃、人事の結論が出ますか? 結果は、必ずご連絡いただきたいです」
僕は、返答に困ってしまった。Hさんの真剣さに応えたい気持ちはあるけれど、彼女の望み通りの結果になるとは限らない。
僕が困っている理由は、他にもあった。実は、件の不倫カップル(つまり、Hさんの夫とMという名の弊社社員)は、今日、それぞれ別室で事実確認をされている。それぞれ、別階の会議室を使ってだ。
正直、不倫をしたことだけで解雇にすることは難しい。
だが今回は、在宅勤務と偽って、勤務時間中に不貞行為に及んでいたことが分かっている。その証拠は、Hさんから提出されたものだ。彼女は夫の不倫を知った時から、コツコツと証拠を集めていたのだという。
また、Hさんの夫は現場視察の名目で出張を行っていたが、滞在先のホテルにMを呼び寄せていた。さらにMは上司であるH夫に、自身の評価を上げるように再三依頼していことも分かっている。
その他、二人の所属する部署からは、とても口にするのは憚られるような情報が寄せられていることを考えると、恐らくこの不倫カップルはそれなりの罰を受けるだろう。
ただそれが、被害者の望み通りとはいかないことも多い。受けた心の傷を癒すには、不十分ということもままある。
結局、Hさんは会社からのメール連絡を待ってくれることになり、僕に頭を深々下げて帰っていった。エレベーターまでお見送りした僕に、「ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」としっかり口にした彼女の気丈さが、不憫になるほど。
受付で暴れたり、大声を出したり不倫相手の女を探したり、やろうと思えば幾らでも出来たはずだ。それでも最後まで涙すら見せず、一人の大人として振舞ったHさん。
僕が彼女の立場だったら、同じことが出来ただろうか。
「田中さん。お疲れ様」
会議室に忘れ物を取りに行こうとして、僕は田沢さんに呼び止められた。彼女は雰囲気で、直ぐに不倫関係だと見抜いたそうだ。
「どうかと思いますよ。いくら自由恋愛だって言っても、あんなに傷つけてまで自分のワガママを通すのは、やっぱり違うんじゃないかなって……」
周りに人がいないのをいいことに、僕はつい、受付で愚痴を溢す。
「そうですよ! 思いっきり罰を与えてやりたいって、普通だったらそう!」
「懲戒?」
「違う違う! ちょん切っちゃうの! スパッと!」
ひゅんっと瞬間的に寒気が走って、僕は思わず前を押さえた。
田沢さんは、良い笑顔。
僕は絶対、浮気も不倫もしないことを誓った。
……先ず、彼女がいないけれど。
*
自分のデスクがある階へ向かう途中、僕は法務部に顔を出すことに決めた。先日から色々と立て続けに事件が起きていて、法務の方にはフォローしてもらっている。そのお礼がてら、依頼事項の進捗確認だ。
「コブラだって! コ・ブ・ラ!」
法務部の島の前へやって来た時、僕は法務の富士マネジャーが声を荒げていることに気付いた。彼は左手に、紙を筒状にしたものを装着している。
「いやいや~。ロッ○マンでしょ? どう考えても」
「あのねぇ、サイコガンは心で撃つのよ?」
「流石に古いんで、ロッ○マンですね」
富士マネジャーと穂高リーダーがなにか言い争う中、浅間さんという若い男性だけが僕に気付いて駆け寄ってきた。
「田中さん。良かった、こちらへ」
浅間さんは慌てた様子で、僕を法務の島から離していく。
「どうされたんですか? あのお二人が、あんなに……」
浅間さんは、「それ以上言わないように」と言いたげな表情で、僕の言葉を制止する。普段は穏やかで物静かな彼の真剣な表情に、僕は言葉を返すことが出来なかった。
「田中さん、進捗の件でしょうか?」
「あ、そうなんです。でも、あの、最近色々とお世話になったので、お礼をお伝えしたくてですね」
「そうでしたか。お心遣い頂き、ありがとうございます」
浅間さんはニコリと微笑む。
浅間さんは若いのにいつもビシッとしていて、とても好印象だ。僕も見習わないと。
そんな浅間さんの後ろで、富士マネジャーと穂高リーダーが再び声を荒げた。「ジャンピング土下座しろ」だとか、「サイコガンって一度壊れましたよね?」のような言葉が聞こえたような気がするけれど、僕には何のことか分からない。
一体何を揉めているのか不思議に思っていると、僕の視界の先に浅間さんがスッと移動した。まるで、彼らを隠すみたいに。
「案件毎に進捗を纏めたものをご用意しておりますので、この後、直ぐに送付させていただきますね」
「あ……ありがとうございます」
「いえ。一点、急ぎ人事部内でご検討いただきたいものがございますので、赤井さんにもそのようにお伝え願えますか? 昨日、私からも、頭出しのメールは送付しております」
「ありがとうございます。伝えますね」
浅間さんはまた、ニコリと笑う。彼は笑顔だけれど、それは、どこか圧を感じさせる笑顔だ。
浅間さんは、何かを隠したがっているように見える。恐らく、何らかの方向性の違いで、法務部内で揉め事が起きているのだろう。真剣に向き合っていると、妙に熱が入って普段は使わない言葉が飛び出したり、そういうことはよくある。
ただ、それを別の部署の人間に見せたくないという気持ちも、僕には何となく分かるような気がした。見栄を張るのとは、少し違う。でも、身内のゴタゴタは、出来るだけ見せたくないというか。上手く言葉では言い表せないのが、ちょっと悔しい。
僕は浅間さんに軽く頭を下げて、法務の島から離れた。
最後まで微笑みを崩さずスマートに振舞う浅間さんは、同性の僕から見ても素敵な人だ。そんな彼を悩ませている問題が、早く解決するといいのだけれど。
*
僕が自分のデスクに戻ると、そこには何時もの光景があった。
常に酷いアレルギーに悩まされている緑川さんが、涙目で鼻をかみながらメールチェックしている。休職者の対応で、彼女はとても忙しそうだ。
その隣でデスクに突っ伏しているのは、桃山さん。恐らく、今日も黒岩マネジャーが共有ファイルを開きっぱなしにしていて、一部の作業が進まないのだろう。このところ法改正も重なって、桃山さんは普段よりも忙しそうにしていることが多い。
そして僕のデスクの正面では、赤井先輩が凄まじい速度でメールを打っている。
「おう。どうだった?」
「お話しの分かる方で助かりました……」
「あー。そっちのパターンの方が、メンタルにくるよな。おつかれ」
パソコンの画面に視線を向けたまま、赤井先輩は苦い顔。彼は僕の一言で、来訪者の人となりを理解してくれたようだった。
先輩の言う通り、話が通じる相手の方が、僕らには辛い時がある。いっそのこと思い切り暴れてくれれば、こっちだって被害者になれるのだけれど。
……なんて、そんなことは、口が裂けても言えないね。
「なんで浮気するんですかね? 本当、理解出来ないです。一人でも彼女が居れば、もうそれで良くないですか?」
「あら~? 田中さんたら、そういう感じ~?」
赤井先輩がふざけて僕を茶化すと、緑川さんと桃山さんが笑った。
ちなみに、僕に彼女が居ないことは、皆が知っている。
「今ってアプリで出会うんでしょ? 田中君も登録したらいいじゃない」
緑川さんは椅子を回転させて、体を僕や赤井先輩の方へ向けた。彼女の膝の上には、ティッシュ箱が乗せられている。
「僕だって、アプリ否定派ではないですよ」
「そういう派閥があるのね」
「出会った後、そのアプリってどうなります? 消してくれますかね? アプリで出会う人は、アプリで浮気しませんか?」
「あ~。私、その感覚が分かる気がしないでもないような、しないような……」
桃山さんも僕らの方へ体を向けて、腕を組んで考え出した。
「関係ねぇよ。浮気する奴はするし、しないやつはしない。そういうもんだろ」
赤井先輩は、若干あきれ顔。彼は恋愛関係の話になると、大体こういう顔になる。
僕は、ふと、これは霞ヶ浦さんからの依頼をこなすチャンスだと気付いた。
「そういう先輩はどうなんですか? 彼女、居るんですか?」
「いるよ」
「え……!?」
予想していなかった返答に、僕は頭が真っ白になった。こんなにアッサリ応えてくれるとは、完全に想定外だ。
「赤井君は普通に『居るタイプ』だよね」
「あ~。分かる。ね、どんな子?」
女性陣はニヤニヤしながら、赤井先輩の席の周りに集まり始めた。
先輩は相変わらず呆れ顔で、手元では仕事しながら、やけに素直に彼女の特徴を答えている。
「泳ぐのが好きで、走るのも好き。子供好き。人が多いところへ行くとテンション上がるタイプ。キャンプ連れてくと、凄いはしゃぐ。車乗せると、ニコニコしながらずっと窓の外見てる。食べるの大好き。髪は長めで……」
「ちょっと待ってください! 先輩は今、ゴールデンレトリーバーの話をしてませんか?」
「女の話だよ」
「あ、『女』は止めてください。『女性』って言ってくださいよ。そういうの、怖がる人いますから」
「いるな。火が付いたみたいに騒ぎ出す奴……。めんどくせー」
溜息交じりの先輩に、苦笑いの女性陣。
その中で僕だけは、違う理由で溜息を漏らしていた。
霞ヶ浦さんとは、赤井先輩に彼女がいるかどうか調査することを約束している。結果報告は、以前一緒に行った居酒屋で行うことになっているのだけれど……。
これは、ちょっと気が重いぞ。
最終話です。長くなってしまったので、前・後に分けて更新します。




