春先の人事さん
『辛いよ!人事さん』
ネット上でよく見かけるこんな噂、皆さんはご存じですか?
家を買うと、単身赴任させられる?
子供が生まれると、異動辞令が下る?
「そんな訳ねーーだろうが。バーーーーーーーーッカ!」
赤井先輩の心からの叫びで、僕(田中正直といいます)はハッとした。
手元で作成していたメールは、書きかけのままだ。
季節はもうすぐ春を迎えようとしていて、日差しにも暖かさを感じるようになってきた。
パソコン右下の時計は、十時二十分を表示している。
「赤井君、また問い合わせ?」
赤井先輩の後ろから、桃山さんが顔を覗かせた。いつも明るい彼女だが、今日は顔に疲れの色が見えている。理由は明白。もうすぐ、春が来るからだ。
「異動が気に食わないだかなんだか、今週だけで八件っすよ。しかも根拠のない噂持ち出して……」
赤井先輩がイラつきながら、高速で指を動かしてメールを作成している。
桃山さんは困ったように小さく笑った後、自分の仕事を思い出した様子で溜息を漏らした。
僕は、とある会社の人事部に所属している。
正確には、人事部労務課だ。
大体の場合、僕は「人事さん」とだけ呼ばれることが多いけど。
労務と言われても、ピンと来ないかもしれない。
企業の経営において、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」の4つが重要な経営資源とされている。
その中で人事が担当しているのは、「ヒト」の部分。
人事は「ヒト」を管理して、労務は「労働環境」を管理している。
簡単に言えば、会社で働く社員のサポートをすることで企業活動を円滑にすることが仕事だ。
……そんなこと言われても、全然ピンと来ない?
もっともっと簡単に言うと、労務を担当する僕らは就業規則を作ったり、給与計算をしたり、勤怠管理をしている。
もし皆さんの会社に、残業が一定時間を超えると凄く怒る人たちがいるなら、それが僕らです。
「異動の度に、こっちに連絡来ちゃいますよね。配置とか評価は、人事課なのに」
僕がメールを打ちながら愚痴をこぼすと、メールの返信を終えた赤井先輩が何度も頷いた。
「私、前に緑川さんとも話したんだけど。退職とか休職って、労務宛てに届くじゃない? 労務で配置表とか更新しているから。それのせいじゃない?」
桃山さんが言うと、その隣で緑川さんが大きなクシャミで応えた。
緑川さんは、マスクと透明なゴーグル型眼鏡で顔を殆ど覆っている。酷いアレルギー体質の彼女は、春はスギから始まり、秋のブタクサまで花粉症が続く。さらに、インフルエンザが流行る時期はマスクを着用するため、彼女が素顔を晒すことは殆どない。
「春ねぇ」
桃山さんが、緑川さんにティッシュの箱を渡している。
「春っすねぇ」
赤井先輩が腕時計を確認しながら、手元のノートパソコンを畳んで移動の用意をしている。
「春……ですね……」
ようやくメールを打ち終えた僕も、赤井先輩と同じミーティングに同席するために用意を始めた。
そうして、僕らは全員、同じタイミングで深いため息を漏らす。
四月になれば、約二百人の新入社員がやってくる。育児休業を取得していた社員も続々と復帰をはじめ、出向開始になる社員や、新たに役職に就く社員のサポートも必要だ。
そんな訳で、春は忙しい。
ただでさえ忙しいというのに、今年の春はこれまで以上の慌ただしさを見せている。
子会社の新設(それも二件も!)と、事業の一部を売却することが決まった他、法律の改正まで重なったからだ。
「もういい加減にね、私の許可を取らずに法改正しないで欲しいワケ」
緑川さんが愚痴るのを聞いて、僕らは笑った。彼女はここのところ、育児休業関係の法改正対応に追われている。
社会が変わる度、法律が変わる度に、僕らは会社のルールをそれに合わせる仕事をしなくちゃいけない。それは大変だけれど、とてもやりがいのある仕事だ。
「今日って、法務側は誰がいらっしゃるんでしたっけ?」
赤井先輩を追って廊下を行きながら、僕はこの後のミーティングのことを考えていた。
今日は、法務部とのミーティング。議題は沢山あるのだが、時間は三十分しかとられていない。
お互いに
「持ち帰って検討します」、
「担当者に確認が必要なので、宿題にさせてください」
の応酬になるので、長い時間を確保してもあまり意味がないのかもしれない。
「富士マネと穂高リーダーだろ? あと、浅間が居るか居ないか」
赤井先輩は歩きながら肩の後ろに手を回して、首を左右に傾けている。デスクワークで肩こりが酷いのだろう。さらに彼は、日曜日にサッカーの試合で腰も痛めていた。
春先は皆が体力も気力も使い果たしているが、赤井先輩は休みの日でも動いていないと体力を回復できない奇特な人だ。僕なんて半日はベッドの上で死んだように眠っているというのに、先輩はサッカーをしたりキャンプしたり趣味でパンを焼いている。
桃山さんと緑川さんは先輩のことを裏で「体力オバケ」と呼んでいるが、それはここだけの秘密だ。
「一応、言っとくけど。イ○ドのことは、絶対に言うなよ……?」
会議室の扉の前。赤井先輩は僕を脅すように、冷たい顔でそう言い放った。
*
法務とのミーティングは、いつも通りサクサクと進んでいた。
決めごとや確認が必要なことも多く、社内の担当だけでなく外部の弁護士や社労士にも確認を必要とする事項もあって、やはりほとんどが次回ミーティングまでの宿題となった。
「――では、登記簿謄本については、取得でき次第ご連絡しますね。本日の議題は以上ですが……ほかに……労務さんからありますか……?」
法務の浅間さんの一言で、会議室の空気はビリビリと張り詰めた。
「いや、うちからは特にないですね。頂いた宿題のうち、新会社の規程関係については、今週中に回答出来るかと」
赤井先輩は法務側の参加メンバーを前に、暴力的な笑顔を浮かべている。
「ありがとうございます。……では……特には、いいですか……?」
法務の浅間さんは歯切れ悪くそう言いながら、助け船を求めるように隣の富士マネジャーと穂高リーダーに視線を送った。
少し前から、イ○ド海外出向の件で、僕らは問題を抱えている。この春から既存のメンバーとは別に、新たに二名の出向が決定した。だが、法務と人事とは、それに関する仕事を互いに押し付け合っているような状態なのだ。
元々、海外周りの出向契約書は法務で作成をしていた。法務には外国語に堪能な社員が居て、彼らが引き受けてくれていたからだ。
だが、優秀な人材は、直ぐに引き抜かれてしまうもの。
外国語に堪能な社員が退職してしまった後、法務部はこの春からの海外の出向契約書を、労務の業務としてシレっと押し付けてきた。
しかし僕らも余裕がないためピシャリと押し返し、以降は互いに「お前が担当だろ?」を言外に放ちながら、笑顔でのらりくらりと交わし合う日々だ。
元々、海外周りの出向契約書は締結までに時間がかかる上、イ○ドに関しては先方の担当者が変わる度に対応が止まってしまうこともあって、締結が出向開始後になることが常態化している。
そんな訳もあって、非常に子供じみてはいるけれど、僕らが互いが折れるのを待っているのだ。
「そうですね……。どうでしょうね。もしあれば……」
穂高リーダーは腕を組みながら、「分かっているだろ?」と言いたげな顔で僕を見る。
僕は赤井先輩の様には出来ず、背中に嫌な汗をかきながら「ええと……?」と惚けることしか出来ない。
今回のイ○ド出向契約書の仕事をこちらで受け入れるということは、既に出向中である他のベ○ナムや○国、シン○ポールやド○イについても、まとめて引き受けることになってしまう。これは、絶対に負けられない闘いなのだ。
「そういえば、アレはどうなりましたか?」
法務の富士マネジャーが、斬りこんできた。
「アレというと……?」
赤井先輩は、すっとボケている。
富士マネージャーは、「いやあ、なんだったか……。物忘れが……」などと、突然ボケ老人のフリをし始めた。
僕らの頭上には「イ○ド」の三文字が浮かんでいたが、誰もそれには触れないし、見えないフリをしている。
勿論、こんな茶番がいつまでも続くはずはなく、結局は何処かでどちらかが折れるしかない。
だがそうだとしても、仮に僕らが巻き取ることになるのだとしても、抵抗した証は見せたい。少なくとも僕と赤井先輩は、そういう思いでいる。
*
「赤井君さあ、変なところでお馬鹿さんだよ」
デスクに戻るなり、報告を受けた黒岩マネジャーが赤井先輩を前に呆れて見せた。
職業柄か、僕たちはつい、「馬鹿」という単語に反応して動きを止めてしまう。
黒岩マネジャーは、イ○ドの出向契約書の件を言っていた。
「君だってさ、結局、うちで巻き取ることになるって分かってるでしょう? 分からない君じゃないんだからさ」
「はあ。はい」
「時間の無駄じゃない。もう、やっちゃいなよ。こっちでさ。『損して得取れ』だよ」
「はあ。はい」
「ここで貸しを作っとけばいいじゃない? ね!」
黒岩マネジャーはそう言うと、ネクタイを結び直しながらニカッと笑う。
余談だが、マネジャーのネクタイにはいつも、世界で一番有名なネズミのキャラクターが描かれている。幼い娘さんの気を惹くために有効らしい。
「貸しても貸しても、返ってこないもの……なーんだ?」
黒岩マネジャーがオフィスを出てから、赤井先輩がボソリと呟く。彼の顔は般若のように歪んでいる。
「赤井君は、割と被害者なのよねぇ」
桃山さんがデスクの引き出しから個包装の飴を取り出して、赤井先輩と僕に寄こした。
先輩はこちらをチラリとみて、僕の貰ったイチゴ味と自分の飴を交換してほしそうな顔をする。でも、僕は無視をした。僕だって、黒飴は嫌だ。
「でも実際にやるってなったら、どうするワケ? 翻訳」
尋ねた後、緑川さんは皆に背を向けて鼻をかむ。
「僕、ちょっと聞いたんですけど、一文字幾らとかで契約書の翻訳してもらえるらしいですよ」
「予算どうすんの?」
「ですよね……」
「法務負担でいいんじゃない? だって、もともと向こうの都合でこっちがやるんでしょ?」
桃山さんの言葉を聞いて、赤井先輩は不満そうに口を尖らせる。まだ完全に、こちらで引き受けたわけではないのだ。
皆は揃って溜息を漏らすと、自然と自分の仕事へと戻っていく。
僕はメールのチェックをしながら、午後の膨大なタスクを前に、現実逃避して自宅の冷蔵庫の中身について思い出していた。冷蔵庫は空っぽだから、帰りに買出しをしなくちゃいけない。
僕は現在、週に二、三日は在宅勤務している。でも家に居るからといって、休憩時間に買出しに行ったり掃除したりすることはない。結局は仕事していることに変わりはない訳だから、休憩時間はクタクタだ。
そうは言っても、僕は在宅勤務が好きだ。自宅でなら、パンを口に咥えながらでも余裕で資料作成出来てしまう。座りっぱなしの姿勢で疲れた時は、誰の目も気にすることなく突然スクワットだって出来る。
ただ、毎日誰かしらとオンラインミーティングはあるから、髪はセットしなければならないし、ジャケットも着用する。下はスウェットのままだけれど、今のところバレたことはない……と思う。
「……異動者リスト開いてる人ー?」
突然、桃山さんが、労務の島を見回しながら呼びかけた。彼女が言っているのは、春からの異動情報がまとめられたエクセルファイルのことだ。
僕らが皆、首を横に振るのを見て、桃山さんは顔を曇らせる。
「噓でしょ……。黒岩さん、また……?」
黒岩マネジャーは、エクセルの共有ファイルを開きっぱなしで離席してしまう常習犯だ。
本人には自覚も悪気もないから、余計に質が悪い。
「黒岩さん、このあと夕方まで戻らないっすね」
赤井先輩がスケジュールを確認してそう告げると、桃山さんは絶望してデスクに伏してしまった。
それから彼女は直ぐに気を取り直してデスクの下から小さな手提げを取り出すと、そこにお財布を入れてフラフラと出て行ていく。多分、早めのランチに出たのだろう。
仕事は一人でするものではないから、周りに振り回されたりもする。
でも、助けてくれるのも周りの人なんだよなあ……と、そんなことを考えると、唐突に僕は社会人として少し成長したような気持になった。
多分、気のせいだろうけど。
ピロンッと音がして、また新しいメールが届く。
「……えぇ!」
人事課から届いたメールの内容を見て、僕は思わず変な声を出してしまった。
同じメールを読んでいたのか、赤井先輩も遠い目をしている。
「新しい職種と給与レンジを設けたい……? 四月から……?」
メールには、新しい職種で採用を開始していること、既存社員からの転換を含めて三十人ほどが対象となる予定であることなどが書かれていた。
「給与規定、改訂作業したばっかですよね? え、テーブルは、採用の方で作ってくれるんですよね?」
「やべえな」
「というか! 同じ部署なのに、なんでこのタイミングまで連絡こないんですか」
僕は思わず立ち上がって人事課の島を確認したが、そこには人一人いなかった。
採用担当室の島などは、デスクの表面が薄っすらと埃で白くなっている。
勿論、人事課側にも言い分はあるだろう。事業部から、無理やり要望を押し付けられたのかもしれない。彼らも板挟みの状態で辛いのだろうか。
だがそうは思っても、ぶつけようのない心のモヤモヤは晴れぬままだ。
「やべえな」
赤井先輩が壊れたロボットのように、先程と同じ言葉を呟いた。誰かが許せば、彼はオフィスを飛び出して海でも山でも向かったに違いない。
「やるしかねぇか……」
「はい……」
ふと目についた、カレンダー。もう、二月も終わろうとしている。
「……三月の僕らって、生きてます……?」
「生きててぇなあ……」
増えてしまったタスクを前に、僕はスケジュールの組み直しを余儀なくされてしまった。
赤井先輩と僕は桃山さんから貰った飴を口に放り込んで、よしっ! と気合を入れ直す。
僕たちの仕事は、その大部分が社員の目には触れないところで進んでいる。やっていることは殆どは目立たないし、褒められることも少ない。その割に給与計算を始めとしてミスが出来ない仕事も多いから、決して楽な仕事という訳でもない。
でも僕は、この仕事が好きだ。
会社の土台をガッチリ固めるのも、人の役に立てるところも気に入っている。
「ねえ! なんか、また相談来てるけどー?」
緑川さんが、鼻をかむついでに僕と赤井先輩に声を掛ける。
「なんか、急に会社来なくなっちゃった契約の子が、上司のパワハラがあったって労基に……」
緑川さんが読み上げたメールの内容に、僕と赤井さんの意識は遠くへ飛びかけた。
そんなこんなで色々あるけれど、僕は今日も、頑張っています。
おわり