温泉天国パニック?
滝壺の近くは、雪緋さんが言っていたとおりの適温だった。
滝も思っていた以上に低め(三メートルくらい?)で、勢いもそれほど激しくなく、直接浴びても問題なさそうだ。
滝壺の深さも、湯船にはちょうどよくて。
さっきまでムカついていたこともケロッと忘れ、
「ほわぁ~。気っ持ちい~い。これぞ『極楽、極楽』ってヤツだよねぇ~」
なんて、上機嫌でつぶやいていた。
周囲は深い緑。
滝の音も風情があるし、マイナスイオンもたっぷり取り込める。
空は青く、朝の澄んだ空気もすがすがしくて……。
あーっ、ぜいたく!
こんな素敵な温泉を、独り占めできてるなんて!
しかも、蘇芳国に滞在してる間中、満喫できるなんて!
思いっきり旅行気分だわ~。
本来の目的を、うっかり忘れてしまいそうだわ~。
ここらでひとつ、向こうの世界で好きだった曲でも、歌っちゃいたい気分だわ~。
……って、さすがにそれはムリか。
イサークと雪緋さんに聞こえちゃったら、恥ずかしいし……。
早々に歌うのを諦めた私は。
シャワー代わりに滝でも浴びようと、ゆっくりと立ち上がった。
横を向き、少しずつ、少しずつ、滝の中へと進んで行く。
最初は手のひらを。次に腕を。そして頭から肩まで、一気に身を投じようとした時だった。
「うわあっ!?」
後ろから男の人の悲鳴が聞こえ、ハッとなって頭だけ振り向くと。
――何故かそこには、上半身裸(下は岩に隠れて見えなかった)の、真っ赤な顔をしたカイルが立っていた。
目が合ったとたん、私はその場にしゃがみこみ、
「キャアアアアーーーーーーーッ!!」
滝の音に負けないくらいの悲鳴を上げて、ダンゴムシのように丸まって体を隠した。
「もっ、もももっ、申し訳ございませんッ! まっ、まさかこちっ、こちらに、姫様がいらっしゃるとは、露ほども存じ上げず――っ」
彼も私と同じくらい、動揺しているらしい。
気の毒に思えるほど、声が裏返っている。
「だ、大丈夫ですっ、何も見てはおりませんっ! 湯気が邪魔――っ、い、いえっ! 立ち上った湯気で、姫様のお姿はほとんど隠れておりましたしっ!」
慌てて説明するカイルだけど、『あ、なーんだ。ほとんど隠れてたのかー』なんて、安心する気にはなれなかった。
だって、『ほとんど隠れてた』ってことは……。
「ぜ、全部じゃなくてほとんどってことは、ちょっとは見えちゃってたってことでしょぉっ!? どっ、どこっ? どこら辺が見えちゃってたのぉっ!?」
体を丸めたまま訊ねる私に、彼はますますうろたえて。
「ど、どこら辺と、もっ、申されましても――っ!……あ、あのっ、そそっ、そっ、それは――っ」
彼が答えようとした時だった。
今度は岩陰の向こうから、
「おいっ、どこだ姫さんッ!? さっき悲鳴みてーな声がしたが、まさかあんたか!? 何かあったのか姫さんっ!?――おいっ、どこにいる!? いるなら返事しやがれぇッ!!」
「リナリア姫様ッ!! いずこにおられるのですかッ!? リナリア姫様ぁーーーーーッ!!」
ものすごく焦っているような、イサークと雪緋さんの声が聞こえてきて……。
――マズい!
雪緋さんはともかく、こんなところをイサークに見られたら……!
緊迫感たっぷりの彼らの声を聞いて、真っ先に私の脳裏に浮かんだのは、船上での出来事。
私のベッドで素っ裸の雪緋さんを見つけた時、イサークはナイフを彼の喉に突きつけて、凄んでみせていた。
(……ダメ! カイルが殺されちゃう!)
恐ろしくなった私は、慌てて大声で返事をした。
「ダメッ!! 来ないでイサーク、雪緋さんッ! 私はダイジョーブだからッ!!」
一拍置いた後、聞こえてきたのは、
「姫さんっ、無事なのかッ!?」
「いかがなさったのです、リナリア姫様ッ!?」
少しだけ緊迫感が薄らいだ、彼らの声だった。
私もひとまずホッとして、さらに大声で言い返す。
「ごめんねーーーっ、心配させちゃて! さっき、ガサガサって音が聞こえて、思わず悲鳴上げちゃっただけなのーーーっ! 何かはわからなかったけど、動物だったみたーーーい! 何でもないから心配しないでーーーっ? 悪いけど、もう少しゆっくり浸かっていたいから、元の場所に戻ってーーーっ?」
「はあっ!? 何かの動物だぁ!?……ったく! 驚かせんなよなぁ! 姫さんに何かあったら、俺だってタダじゃ済まねーんだからなーーーッ!?」
「だからごめんってーーーっ! もう騒いだりしないから、とにかく二人とも戻ってーーーっ!? 雪緋さんもごめんねーーーっ!?」
「いえっ、ご無事で何よりでしたーーーっ! 私どものことはお気になさらず、どうかごゆっくりなさってくださーーーいっ!」
「うん! ありがとーーーーーっ! そうさせてもらいまーーーっす!」
最後の返事をすると、辺りはまた、滝の音しか聞こえなくなった。
私はハァ~っと息を吐き出し、ピンチが去ったことに安堵していた。
だけど、もうひとつのピンチはまだ目の前にあるんだったと、カイルのいた方へ目を向けると。
彼は私に背を向けて立っているらしく、頭から背中にかけての後ろ姿が、岩の上から覗いていた。
「も、申し訳ございません! 私もただちに失礼いたします! それでは――っ」
早口で告げ、去ろうとする彼に、
「あっ、待って!」
思わず、声を掛けてしまっていた。
「は――、はい。……何か御用でしょうか?」
背を向けたまま訊ねられ、私は一瞬、頭が真っ白になった。
だって、とっさに声を掛けてしまっただけで、用があったわけじゃなかったんだもの。
……あ。
そりゃあ、訊きたいことは山ほどあるけど。
今は、冷静に話を聞く余裕なんかないし……。
どっ、どどどどーーーしようっ?
いったい、何を話せば……っ?
「……姫、様?」
呼び止めておいて、何の言葉も発しない私を、妙だと思ったんだろう。
カイルが心配そうに私を呼んだ。
「あっ、ご、ごめんねっ? べつに、用があるとかじゃないんだけど……。で、でもほらっ、あなたもここで、汗を流そうとしてたんでしょ? 稽古か何かをしていたの?」
「あ……はい。鍛錬は、毎日欠かさずしておりますので――」
「そ、そっか! そーだよね! 護衛がお仕事なんだもんね!」
ザックスにいた頃と少しも変わらず、日々の鍛錬をしていることを知り、私の胸は熱くなった。
今は何故か、〝翡翠〟として暮らしているみたいだけど。
城を発つ前に、私としてくれたあの約束を、彼が忘れていないことが証明されたみたいで、嬉しかったから……。
「あの……。どうかなさいましたか?」
再び私が沈黙したことで、彼を困惑させてしまったらしい。
早く何か言わなきゃと焦った私は、
「あっ、あの! よ――っ、よかったら一緒に入らないっ?」
とっさに、自分でも信じられないようなことを口走っていた。