紫黒帝の弱点?
振り向いた先にいた人は、思ったとおり藤華さんだった。
彼女は私達の顔を一人一人確認するように見回した後、こちらに向かって歩いてきた。
そして、紫黒帝の前で足を止めると、
「帝。わたくしの従者が無礼を働いたのでしたら、お詫びいたします。ですがその前に、事の経緯を説明してはいただけないでしょうか?」
憂いの表情でじっと紫黒帝を見つめながら、穏やかな声で訊ねる。
すると紫黒帝は、急にうろたえたように視線をさまよわせ、一歩足を引いた。
「け、経緯か? 経緯は、その……。リナリアが部屋にいないと、様子を見に行った女官が申すものだから、何かあっては大変と思い、皆に捜させていたのだ。そうしたら、ここにおる翡翠めが、リナリアを暇つぶしに連れ出したということが判明してな。であるから――」
「まあ。翡翠が姫殿下を?」
藤華さんは意外そうに目を見張り、カイルへと視線を移した。
紫黒帝の説明では不充分すぎて、また誤解されてしまうと焦った私は、
「あっ、あの! 連れ出したと言っても、私が無理に頼み込んだからなんです! 全部私のせいで、その人は悪くありません!」
話に割って入ったりして、礼儀知らずな奴だと呆れられないか、ヒヤヒヤしたけど。
どうしても黙っていられなかったから、勇気を振り絞って藤華さんに訴えた。
藤華さんはこちらを振り返り、納得したようにうなずいてから、再び紫黒帝に顔を向けた。
「翡翠が、自ら進んでリナリア姫殿下を連れ出したのでしたら、帝がお怒りになるのももっともなことと思いますけれど。姫殿下からお願いされて――ということなのでしたら、ここまで大騒ぎする必要はなかったのではこざいませんか? 帝は姫殿下に、ずっと部屋にこもっておいでなさいと、おっしゃっていたわけではございませんでしょう?……おっしゃっていましたの?」
「申しておらぬ! リナリアには、神結儀までゆるりとしておれと申し伝えたのだ! 部屋にこもっておれなどとは、一言も申しておらぬわ!」
「……でしたら、何の問題もございませんわね? すっかり日が暮れてしまっている頃のことでしたら、帝がご心配なさるのも無理はございませんけれど。まだそのような時刻ではございませんものね」
そう言って、藤華さんはにっこりと微笑んだ。
紫黒帝はタジタジと言った感じで、気まずく目をそらし、
「そ、それはその……。まあ、そうではあるが……」
なんて、モゴモゴとつぶやいている。
……へえー……。
紫黒帝はこの国の一番偉い人なんだから、彼に意見できる人なんて、一人もいないんだろうなと思ってたけど。
もしかして巫女姫って、私が想像している以上に、位の高い存在なのかな?
帝ほどではないにしても、それに近い地位の人とか……そんな感じ?
……よかった。
周りがイエスマン? ばかりだったら、帝はどんどん増長して、すごく孤独な人になってしまっていたかもしれないけど。
彼女のような人がいてくれるなら、きっと心配いらないよね。
私は改めて藤華さんを見つめ、惚れ惚れしつつうなずいた。
藤華さんは菩薩のごとき微笑みをたたえたまま、
「姫殿下も、こうしてご無事でいらしたわけですし。萌黄も翡翠も、もう下がらせてもよろしいでしょう? よろしいですわよね?」
穏やかだけど、有無を言わせぬ静かな迫力でもって、紫黒帝に念押しする。
紫黒帝はうぐぐと詰まった後、観念したようにため息をついた。
「……ああ、わかった。二人とも下がるがよい」
「フフ。……ありがとうございます」
『勝った』と言わんばかりの、満足げな表情をしてみせてから。
藤華さんは、萌黄ちゃんとカイルに下がるよう促した。
私はそっと藤華さんに近付き、『ありがとうございました』と小声で伝える。
藤華さんはそれに笑顔で応え、さっそうと退室して行った。
彼女の後に続き、カイルも部屋を出て行こうとしたけど、
「あっ!――待ってカイル!」
私は慌てて呼び止め、彼に早足で近付いた。
「あの……っ。カイルだよね? あなた、カイルなんでしょう? さっきはごめんね。あなたに無理言って連れ出してもらった、なんて言っちゃって。あなたに連れ出されたわけじゃないって伝えたら、今度は萌黄ちゃんが、紫黒帝に詰め寄られちゃうのかなって思ったら、どうしても言えなくて。それで、えっと、話を合わせてくれてありがとう! あとは、えっと、あの……ここでは翡翠って呼ばれてるの? どうして、急にいなくなってしまったの? この国に来たのは、武術大会の修行のため? でも、なんでわざわざ、こんな遠い国まで? ザックス王国でだって、修行はできるでしょう? なのにどうして――っ」
言いたいことも訊ねたいことも、たくさんあったから。
思わず、矢継ぎ早に質問を繰り出してしまった。
彼はゆっくりと振り返り、感情を読み取れない冷めた瞳で、私をまっすぐ見つめると、
「私が帝にお叱りを受けたことを気に病んでおいでなのでしたら、どうかお気になさらないでください。慣れておりますので。それから……恐れながら申し上げます。先ほどから、どなたかと勘違いなさっているご様子ですが……私は翡翠。翡翠と申すものです。カイルなどという名ではございません」
淡々とした口調で、キッパリと言い放った。