諦める理由
ギルの力強い腕が、私を包み込むように抱き締める。
きつく――だけど、苦しくならない程度に、力を加減してくれながら。
「リア……。リア、リア!……リア……ッ!」
名前を呼ばれる度に、少しずつ、腕に力が込められて行く。それでも、耐えられないほどの痛みや苦しさは感じなかった。
だって、今一番苦しいのは彼だろうから。――ううん。彼に違いないんだから。
だからこんなの……私の感じる痛みなんて、全然大したことじゃない。
「ああ……! まさか今日が、別れの日になるなんて……。長い……長い、絶望の始まりの日になるなんて。……バカだな。君に拒絶されるまで、思いもしなかった」
自嘲気味に笑う気配がした後、
「いや。……いいや、違う。それは嘘だ。予想はしていた。ずっと予感はあった。あと少し、私が部屋に入るのが遅かったなら、君とカイルはキスしていたと察した、あの日から――。常に、不安は胸の内に巣くっていた。君は私ではなく、カイルを選ぶのではないかと……ずっと恐れていた」
彼はそんなことを言い出して、私を一瞬戸惑わせた。
「そんな――! カイルが好きだってわかったのは、つい最近のことだよ? その頃はまだ、ホントに、二人とも同じくらい好きだと思ってたのに!」
信じてくれていなかったのかと、つい、非難口調になってしまう。
彼は『そうじゃない』と主張しているかのように、激しく首を横に振った。
「違う! 君を信じていなかったわけではない! ただ――っ」
「……ただ?」
沈黙してしまった彼に、ためらいながらも答えを請う。
「……自信が……。自信が持てなかっただけだ。君に一番に愛される自信が……」
「自信……?」
つぶやいた後、私は思わず眉をひそめた。
常に堂々として、自信に満ち溢れているように見えたギルが。
まさかそんな、弱気なセリフを漏らすなんて……。
意外に思いつつ、私はふと、ずっと疑問に思っていたことを訊ねてみようと思い立った。
「ギル。あの夜……あの別れの夜。私と塔で会う前に、カイルと会っていたでしょう? その時、言ったんだよね? 『武術大会で優勝して、リアを褒美に願い出ればいい』、みたいなこと……。ねえ、どーして? なんでギルは、わざわざカイルにそんなこと言ったの? 私がカイルを選ぶって、確信してたから? だから彼に、協力しようって思ったの?」
「……協……力……?」
ぼんやりとつぶやくと、彼はしばし沈黙した。
その後、力なく首を横に振り、
「いや。協力とは……少し違う。私は……私は彼との差を、出来るだけなくしたかっただけだ」
「差を……なくす?」
「ああ、そうだ。……私は一国の王子という立場で、君の婚約者で――。普通に考えれば、君と結ばれるまでに、障害など何もない。君の気持ちが私にありさえすれば、何の問題もなく、婚姻の話は進んだはずだ。……だが、カイルは違う。彼はただの騎士見習いだ。身分だけで考えるなら、君と結ばれることなど、まずあり得ない。条件としては、誰の目から見ても、私の方が有利だろう。『障害があるほど恋は燃える』などと聞きもするけれど、遊びならともかく、本気で身分違いの相手を選ぶというのであれば、強い意志と、相当な覚悟が必要だ。生半可な想いだけでは貫けない。しかし、それでも――それでも君が、カイルを選んだとするのなら――条件の悪い、彼の方を選んだとするならば、私の誇りはズタズタだ。それほどまでに強い恋情を見せつけられたら、私は――」
そこで言葉を切り、両肩に手を置いて私を体から離すと、彼は今にも泣き出しそうな瞳で告げた。
「彼に強くなれと言ったのは、彼のためではないよ。私のためだ。身分の差は生まれつきのものだから、埋めようがないが……。彼が、この国で誰よりも強くなり、栄光や名誉を得さえすれば、まだ諦めがつく気がしたんだ。『彼ほどの男ならば仕方がない』。そう思えるような……君を諦めるための、強い理由が欲しかった」
「……諦める……理由……?」
……なに、それ……?
私を諦めるための理由が欲しくて、わざわざカイルに助言した……ってこと?
……嘘……でしょう?
そこまで、自信がなかったって言うの?
私に選ばれる自信が――?
……嘘。嘘よ。
だってギルは、いつも憎らしいくらい落ち着いてて、大人で……。
余裕たっぷりな顔して私をからかっては、クスクス笑ってたじゃない。
そんなあなたが……。
わざわざ、逃げ場のようなものを事前に用意してまで、私を諦めようとしてたなんて……。
予想外の告白に、私が言葉をなくして立ち尽くしていると。
彼はフッと、寂しそうに笑って。
「呆れたかい、下らない理由で――? 本当に小さな男だろう? 自分でも嫌になるよ。君の目からは、いつも堂々として見えたのかも知れないが、本当の私は……臆病で、常に自信がない、ちっぽけな男なんだ」
そう言って背を向けると、彼は、大人しく待っていた愛馬の元まで、ゆっくりと歩いて行く。
「待たせてすまなかった、アルフレド」
優しく声を掛け、喉の横辺りを数回さすると、彼はあぶみに足を掛けて、颯爽とその背にまたがった。
そして馬上から、
「お別れだね、リア。婚約は正式に解消しよう。――次に会う時には、君と私は、一国の王子と姫。それ以上でも以下でもない。もう二度と、気安く君に接したりはしないから、安心してくれていい」
こちらを一度も振り向くことなく、淡々と告げる。
「ギル……」
いきなり事務的な口調に変わってショックだったけど。
当然のことだと、すぐに自分に言い聞かせ、私は黙ってうなずいた。
「わかった。私ももう……なれなれしい態度取らないように、気を付ける……ね」
私の言葉に、彼も黙ってうなずくと、
「さようなら、リア」
最後にぽつりとつぶやき、愛馬を駆って去って行った。
私は遠ざかる彼の背を、小さくなるまで見送り――。
姿が完全に見えなくなった後も、その場から動けぬまま立ち尽くしていた。
それから、どれくらい経っただろう――。
遠くでセバスチャンの声がしたとたん。
操り人形の糸がプツンと切れたように、私はその場にうずくまり、声を上げて泣いた。