よく似た人
この国、そしてこの山にも、クマやオオカミのような人間を襲う恐れのある生き物が、いるのかどうかは知らないけど。
もし、今〝ガサガサッ〟と音を立てたものの正体が、それらだったりしたら――。
……どうしよう。
緊張で体がすくむ。
怖くて、目が開けられない。
でも、でも!
萌黄ちゃんを――この小さな女の子を護れるのは、今は私しかいないんだから!
勇気を出さなきゃ。
早く目を開けて、敵の正体を確かめなきゃ!
……大丈夫。
万が一の場合には、私がオトリになって、萌黄ちゃんを逃がせばいい。
この子だけでも助けられれば、それで――……。
「萌黄?」
音がした方向から、誰かの声がした。
――瞬間、息が止まる。
怖かったからじゃない。
人間の声だったことに、ホッとしたからでもない。
聞こえてきたその声が、あの人の声に似ていたから。
すごくよく似ていたから……心臓が飛び跳ねただけだ。
……でも、まさか。
確かに似ているけど……似てはいるけど、そんなはずがない。
あの人が、こんな遠い国にいるはずが……あの人であるはずが……。
「ヒスイ!」
萌黄ちゃんの声が響いたとたん、腕の力が緩んだ。
私の腕をすり抜けるようにして、萌黄ちゃんが離れて行き、反射的に顔を上げる。
そこで私が目にしたのは、泣きながら誰かの胸に飛び込んで行く、彼女の姿だった。
「ヒスイ! ヒスイィッ!……うわぁーーーん! どーしよー、わたし……わたしっ。姫様を、あの川に案内してあげるつもりだったのに……なのに、なのに迷っちゃって! わたし、わたし……どーしよー? 失敗しちゃったよぉおーーーっ! うわぁぁああーーーんっ!」
ひたすら泣きじゃくる萌黄ちゃんを、困惑した顔で見つめたまま、その人は、ぎこちなく彼女の頭に手を置いた。
数回撫でた後、戸惑った様子ながらも、穏やかな口調で訊ねる。
「あの川、って……神の憩い場のことか?」
コクリとうなずく萌黄ちゃんに、今度は声の調子を落とし、その人は諭すように話し掛けた。
「あの場所は、滝壺があって危険だから、大人と一緒でなければ行ってはいけないと、藤華様もおっしゃっていただろう? ましてや、一人で行ったことのない場所に、異国の姫君をご案内するつもりだったって?……まったく、困った子だ。大役を任されて張り切るのもわかるが、無理をしてはダメだろう?」
「うぅ……っ。だって。だって! めずらしくてキレイなところだから、姫様も、きっと気に入ってくれると思ったんだもん! どーしても、見せてあげたかったんだもん!」
私の前にいる時とは、雰囲気がまるで違う。
萌黄ちゃんはすねたような、甘えたような口調でその人を見上げた。
「気持ちはわかるが……。案内するなら、しっかり道を覚えてからでないと」
「覚えたと思ったんだもん! ちゃんと覚えたつもりだったの!」
「つもり、って……」
ハァ……と深いため息をつくと、その人は私に目を移した。
視線がぶつかり、私の心臓は再び大きく跳ね上がる。
吸い込まれそうな、コバルトグリーンの瞳。
きめ細やかな白い肌。
フワフワでサラサラな、蒸栗色の髪。
柔らかで優しげな印象の、美しい声――。
……似てる。
ううん! 似てるなんてもんじゃない。
――彼だ。
絶対に彼だ。
生きてたんだ!
やっぱり生きてたんだ――!
「カイ――っ」
名前を呼ぼうとした瞬間。
彼は萌黄ちゃんをそっと胸元から離し、私の前に進み出た。
そして片膝をつき、深く頭を下げる。
「リナリア姫殿下。こちらの者がご迷惑をお掛けしまして、誠に申し訳ございません。まだ幼い女官ゆえ、至らぬところも多くございますが、今回の不始末も、ひとえに姫様にお喜びいただきたいという、一途な思いから起こったことと存じます。その点をご考慮いただきまして、なにとぞ、寛大なご処置をお願いいたしたく――」
……え?
な――、何を言ってるの、カイル?
あなた、カイルでしょう?
カイルなんだよね?
なのに、どうして……。
どうしてそんな、他人行儀な話し方、するの……?
消息不明だった恋人を、ようやく見つけたと思ったのに。
まるで、今日初めて会ったみたいな態度を取られ、私は混乱した。
「あ……あの……。あなた、カイ――」
「ごめんなさい! ヒスイは関係ありません! わたしがぜんぶ悪いんです! どんなバツでも受けますから、どうかお許しくださいっ!」
彼だけをひざまずかせては、マズいと思ったのか。
彼の隣に正座して、萌黄ちゃんも深々と頭を下げた。
「えっ?……ちょ、ちょっと萌黄ちゃんっ?」
二人から頭を下げられてしまった私は、焦ってその場にしゃがみ込む。
「あのっ、やめて二人ともっ? 私、べつに怒ってないから! 萌黄ちゃんに罰をだなんて、そんなこともこれっぽっちも考えてないし!……ねっ? だから顔を上げて? 私にキレイな場所を見せてあげたかったってゆー萌黄ちゃんの気持ちも、すっごく嬉しかったし! ホントにもう、感謝の気持ちしかないの!……ねっ? だからお願い! 顔を上げて? 頭なんか下げてないで、早く立ってよ二人ともぉおーーーーーっ!」
一瞬、カイルの不可解な態度のことすら忘れ。
困惑した私は、森に響き渡るほどの大声で懇願した。