代理案内人・萌黄
どうやらこの国には、握手の風習はないらしい。
萌黄ちゃんは、差し出した私の右手を、キョトンとした顔で眺めていた。
……うん。そっか。
まあ、知らないならしょーがないよね。
私は曖昧な笑みを浮かべたまま、そっと右手を引っ込めた。
「えー……っと。じゃあ、萌黄ちゃんは、私のお世話係ってことでいいんだよね? だったら、早速お願いがあるんだけど」
「はい! 何なりとおもーしつけください!」
「うん。あのね? 紫黒帝には、神結儀までゆっくりしてていい――って言われてるんだけどね? このまま部屋でボーッとしてるだけなんて、時間がもったいない気がするの。だから、あの……できれば、御所のいろいろな場所を、ざざっとでもいいから案内してくれないかな?……えっとね? さっきまでは、男性の案内人さんがいてくれたんだけど、他の仕事があるとかで、忙しそうなんだよね。だから、彼の代わりを、萌黄ちゃんに引き受けてもらえればな~って思ったんだけど……ダメ?」
「代わりに……案内、ですか」
萌黄ちゃんは眉間にシワを寄せ、何やら考え込んでいる。
……あれ?
気軽にお願いしてみちゃったけど、マズかったかな?
もしかして、私を部屋から出すなとか、そんなよーなことを……誰かから言われてたりする?
心配になってきて、『無理ならいいよ?』と言おうとしたとたん。
萌黄ちゃんはキリッとした顔つきになり、私をまっすぐ見つめたままうなずいた。
「しょーちしました! わたしがご案内できるところは、そんなに多くないですけど……それでもよろしければ!」
え?
案内できるところは、そんなに多くない――?
……あ。そっか。
ここは、国で一番偉い人のお家なんだもんね?
あちこち好き勝手に、動き回っていいわけないか。
ましてや、こんなに小さなお手伝いさんに、行くことが許されている場所なんて、少なくて当たり前だよね。
御所内はそうとう広そうだし、迷子になったりしたら大変だもの。
もう!
ほんっと私って、そーゆーとこ気が回らないんだから!
今更ながら自分の浅はかさに思い至り、私はしみじみ反省した。
でも、萌黄ちゃんの顔つきからすると、張り切ってくれてるみたいだし。
案内してもらえる場所が、少なくたって構わない。このままお願いしてしまおう。
「じゃあ、よろしくね、萌黄ちゃん」
「はい! おまかせください!」
小さな両拳を握り締め、萌黄ちゃんは元気いっぱいに返事をした。
私は『やっぱり可愛いなぁ』と、だらしなく頬を緩め。
キリッとした顔を持続させつつ、『では、こちらに!』なんて言って部屋を出て行く、彼女の後に続いた。
「あれ?……あれ? おかしいな。確か、こっちだったはずなのに……」
うっそうとした森の中で、キョロキョロと周囲を見回しながら、萌黄ちゃんは心細そうな声でつぶやく。
――どうやら、完全に迷ってしまったらしい。
「だ、大丈夫だよ! まだこんなに明るいし、森って言っても敷地内なんでしょ? 歩いてれば、いつかどこかに着くよ!」
私は内心焦りながらも、こんなに小さな子を不安にさせてはマズいと思い、アハハと笑ってみせた。
「でも……。でも、お山全体はすっごく広いから、迷ったら大変だねって、いつも千草と話してて。なのに……。なのにわたし、いくらキレイなところだからって、一回連れてきてもらっただけのところを、姫様にご案内しようだなんて……。わたし……わたし、姫様があんまり喜んでくれるから、チョーシに乗って……。わたし……わたし、なんてことを……」
ちらっと、『千草って誰だろう?』という思いが胸をかすめたけど。
今は、そんなところに引っ掛かってる場合じゃない。
萌黄ちゃんは責任を感じてるのか、みるみるうちに涙声になってしまってるし……。
私は堪らなくなって、思わずギュッと萌黄ちゃんを抱き締めた。
「ダイジョーブ! 大丈夫だから、心配しないで? きっと何とかなるから!……それに、悪いのは私なんだもの。こんな小さな萌黄ちゃんに案内を任せっきりで、のほほーんと着いて歩いてた、私がぜーんぶ悪いんだから!……ね? だから泣かないで? 絶対、萌黄ちゃんのせいなんかじゃない。萌黄ちゃんが責任感じる必要なんて、これっぽっちもないんだからね?」
「う……。姫、様……。うぅ、う……っ。姫様! 姫様ぁーーーっ!」
萌黄ちゃんは、とうとう堪えきれなくなったのか。
私の胸にしがみつき、声を上げて泣き出してしまった。
私は片手で彼女を抱き、もう片方の手で、頭をゆっくり撫でながら、『大丈夫だよ』『きっと何とかなるよ』と、無責任に繰り返す。
……そう。
始めて来た森の中で、『大丈夫』なんて、無責任だ。
助かる確証なんてありもしないのに、『きっと何とかなる』なんて、気休めにもほどがある。
それはわかってる。
わかってるけど……。
今の私には、そう言って慰めることしかできなかった。
……どうしよう。
もともと私は、大の方向オンチだし。
本来なら、笑って『大丈夫』なんて、言っていられる状況じゃないんだ。
でも……。
でも、しっかりしなきゃ!
萌黄ちゃんが落ち着いていられるように、私がしっかりしなきゃダメ!
何とか……何とか自力で切り抜けないと!
強く決意した瞬間。
すぐ側で〝ガサガサッ〟という大きな音がして。
私と萌黄ちゃんは強く抱き合い、同時に『キャーーーッ!』と悲鳴を上げた。